その女との出会いに、男は運命を感じた。だがそれは恋愛的なものでは決してない。
底のない沼のようなどろどろとした情念、呪いに変わりそうなおぞましい気配を女から感じ取ったためだ。
そんな人間が自分の目の前にいる。
なんとかかかわりになりたいと思っていたら女の方からきっかけを示してきた。
これはチャンスだと自分の診察室に招き、そして担当する診療科のことを説明した。
その話の中で、男は担当した患者を救えなかったことを話した。
救えなかった、否救おうとしなかった患者のことを。
その患者の写真を示すと女のまとうおぞましい雰囲気が一層強くなって、男は歓喜の声を思わずあげそうになったがなんとか堪えた。
なぜこの女の中身はこれほどにひどく粘ついた黒いものが渦を巻いているのだろう。
その疑問はあとにつづいた女の言葉によって欠片ほどだが理解できた。
『さっき先生が話していた担当した患者さんって、私がいま引き継いだ本丸の前の審神者なんです。でも、私この人に恨まれているみたいで……』
『恨まれている?』
『本丸にこの人の霊が現れたんです。この人、私の顔を見るなり、殺すってすごく怖い顔をして……』
そう言って女は顔を両手で覆って泣いた──泣いたふりをした。
女は涙を流している風を装いながら説明をした。
前の審神者の霊に命を脅かされているのに、サポートが役目のはずの管狐は真面目に取り合ってくれないし、本丸の刀剣男士たちは前の主を恋しがって自分をないがしろにする、と。
『……でも、先生の話を聞いたらかわいそうになっちゃって……きっと本当は恨みたくないと思うんです。でも呪いで死んでしまったから、そんなふうになっちゃったんですよね』
だから助けてあげたい、と女は憐れさを誘う声で男に訴えてきた。
『どうしたら恨みを消してやれますか。どうしたら穏やかに成仏させてあげられるんでしょう。私、恐怖のあまり早く除霊してくれってこんのすけに無茶ばかり言ってしまって』
この女はどう反応してほしくてこんなことを言ってきたのだろうと男は考えた。
本気で成仏させたいのなら霊能者でも探すなりすればいい。呪術師なんて筋違いだ。
つまりこの女が望んでいるのはそんな解決方法ではないということかと男は確信し、ならどんな言葉を返してやればこの女が喜び、それによって内心のおぞましい情念がさらに膨れあがるのかと好奇心が刺激された。
『……あなたは優しい人だ。自分がそんな怖い思いをしたのに気遣ってあげられるなど、そうできることではありませんよ』
褒めれば、女は照れた様子を見せながらも謙遜はしなかった。
『だからこそ心配になりますね。あなたのように優しい方が呪われてしまうのではないかと』
『私、呪われているんですか?』
尋ねる口調は戸惑っているようでありながら、その目にはあったのは隠しきれない昏い喜びだ。
ああ、と男は唐突に理解できた。この女は大義名分が欲しいのか、と。
なら自分が返してやるべき言葉は一つだ。
『いまは大丈夫でもこれから先も大丈夫という保証は出来ません。それに元はといえば僕が誤診をしてしまった結果です。あの子があなたを呪い殺そうと考える前に、どうにかしなければ。それがあの子自身を救う道にもなるかと』
『先生……』
ショックを受けた風を装いながら、その内側で女が歓喜に沸いたことでどす黒く渦巻くものが膨れ上がったのを男は感じ取り、白々しいと内心で嘲笑った。
──呪いで衰弱したあの子の死に目にはあえなかったが、この女の末路を見届けてやるのも面白そうではないか。
それにしてもあの子はこの女にどんな恨みを抱かれているのだろうと思い、何か心当たりがあるのかと聞けば、返ってきたのは一人の男を巡るくだらない話だった。
『彼は……本丸の刀剣男士なんです。私、彼のことが好きで……でも、前の人はずっと彼を……死んでも縛りつけて苦しめているんです。本丸を奪っただけじゃなく彼も奪ったってあの人は思いこんでいるんじゃないかしら。私と大倶利伽羅はお互いを想い合ってるのに、彼は縛られている所為で私を見ようとしない……』
『大倶利伽羅というと、この写真に写っている刀剣男士ですよね』
『ええ』
男はその顔をよく覚えていた。
あの日、呪いをしみ込ませた白い布をばらまき、それを元患者の審神者が拾ったときにそばにいた刀剣男士だ。
顔を見られたのではないかと思ってしばらく診察に同行する男士を警戒していたが、あの審神者はいつも同じ男士を連れてくるので、この『大倶利伽羅』は一度だって病院に来ることはなかった。
きっと自分が彼らの主の呪いの理由だとは思われなかったのだろうと男は安堵して、目的の審神者が衰弱していくのを診察を通して愉しんでいたが、しばらくして担当から外されることになって愕然とした。
誤診をしてしまったからこそ最期まで見守る義務があると新しく担当になった初老の医者に訴えたが、患者側の希望だからと退けられ、むしろ訴えられないだけありがたいと思えとまで言われてはそれ以上食い下がることは難しかった。
自分の本来の目的のために表向きの立場を失うわけにはいかなかった。
あれほど見事に花びらの痣が広がっていたのにそれが失われる瞬間を見届けられなかったのはかなり心残りではあるが、すでに失われたものを今更恋しがっても仕方がない。
それにあの呪いは解毒剤が作られてしまっているから、新しくばらまくこともできない。
その意味でもリコという女にかける男の期待は大きかった。
「ねえこんのすけ。前の人の遺骨っていまどこにあるの?」
思いがけないことを言われて、一瞬こんのすけは反応ができなかった。
「……なぜそんなことを聞くんですか?」
「ほら、国広がもうすぐ別の本丸に行ってしまうでしょう。でも前の人のことをきっと忘れられないと思って。それで手元供養っていうの?それをさせてあげたいって思ったの」
まだ納骨はしていないはずだから今のうちに分骨の手続きが出来ないかと思って、という彼女をこんのすけは胡乱そうに見て、首を横に振った。
「申し訳ありませんがそれは無理です。いかなる理由であろうと分骨は許可できません」
「どうして?」
「審神者の皆さまの通名にしてもそうですが、死んだ後にその遺体を敵に利用されないとも限りません。火葬して骨にしても油断はできませんので遺骨は政府で管理をすることになり、そしていかなる例外もなく分骨は禁止されています」
彼女の脳裏にやり直し前の、記憶喪失になった大倶利伽羅が前の主の墓参りをした時のことがよみがえった。
たしかにあの時もこんのすけはそんなことを言っていた。
前の時には覚えのない義務はあるくせに、そういうところは変わってないのかと内心で舌を打つ。
「……そう。じゃあせめて納骨前にお参りに連れて行ってあげたいわ。どこで保管しているの?」
「彼は自分で前の主さまの祭壇のある所へ通っているので主さまがわざわざ連れて行かなくても問題ありませんよ」
「そうなの……?」
だが確かにその可能性はあったのだと彼女は気づき、口元をひきつらせつつも動揺はなんとか押し隠した。
山姥切国広がそうであるなら、大倶利伽羅もそこへ通っているのは確実だろう。
「じゃあそこの場所を教えてくれる?私、就任したばかりで神経質になってたみたい。もうここは家じゃないなんてかわいそうなこと言っちゃったって反省してて。そのお詫びをしたくて」
こんのすけはしばし無言で彼女を見ていたが、ため息をついて尻尾を振った。
「……わかりました。あとで場所の情報を端末に送ります」
「ええ、ありがとう」
病院で知り合った呪術に詳しい医者の男ことアラミとは連絡先を交換し、そして呪詛返しのためには審神者の情報を持ったものが必要だと言われた。
身に着けていたものでもいいが、理想は相手の肉体の一部。
皮膚の一部や髪の毛などであればよかったがすでに火葬しているので残っているのは骨だけだ。
前の主の遺骨と聞いて彼女はそれならすぐに手に入ると答えそうになって慌てて留まった。
もういまこの本丸に前の主の遺骨はない。
いまも本丸にあったなら入手は容易だったのにと歯噛みし、なんとか手に入れると言って電話を切った。
祭壇ごと撤去させて喜んでいた少し前の自分を殴ってやりたい気分だった。
こんのすけにそれらしい理由をつけて保管場所を尋ねると、翌日の午後には彼女の端末に情報が送られてきた。それによれば政府庁舎地下十階の納骨堂の一室に後飾り祭壇を設置してあるらしい。
撤去した後はどこに置いているのかと気にも留めていなかったが、後の納骨を考えてのことなのだろう。
善は急げと早速向かうことにした。
一階で入館受付を済ませるとエレベーターホールへ向かい、ちょうど来ていた一つへ乗り込む。
やがて着いた地下十階の様相は記憶にある前と同じだった。
「ようこそ。お参りの受付はこちらです。登録ID、もしくは故人様の認識票がございましたらそちらで受付が可能です」
「あの、まだこちらに納骨はされてないんですが、前の審神者の方の祭壇にお参りをさせていただきたいと思いまして」
「失礼ですがお名前を伺っても?」
「リコと申します」
受付の女性は手元の機械を操作すると笑みを浮かべた。
「……はい、リコ様ですね。お話は伺っております。そちらを出て一番奥の部屋に前の方の祭壇が設置されておりますのでどうぞ」
「ありがとうございます」
会釈して踵を返した彼女を見送って、受付の女性はすぐに手元の電話機の受話器を上げた。
示された部屋は薄暗く、こじんまりとしていた。
部屋の奥に設置された祭壇とパイプ椅子が何客かある以外には何もない寂しい様子に前の主にはお似合いだと嘲笑しながら祭壇へと歩み寄り、写真を睨みつけて舌打ちをする。
もはや何も言うことなどなかった。これでこの忌々しい前の主は彼女の前から、そして大倶利伽羅の心からも消え去るのだ。
さっさと作業を終わらせようと手袋をはめ、骨壺にかかっているカバーを外す。
桐箱に収められた骨壺のふたを開けて重なった一番上の骨を一つ掴もうとしたところで部屋のドアがいきなり開けられた。
薄暗い部屋にいくつもの懐中電灯の光が射し込む。
「そこを動くな!」
へし切長谷部の厳しく鋭い声が響いた。