その場を沈黙が支配していた。
告げられた彼女以外は誰も驚いてはいなかった。彼女は呆然としながらも周囲に視線をやって、どうして誰も驚いていないのかと戸惑った。
「なんでよ……私はちゃんと」
「霊力の減少が確認されたときに言ったことを覚えていますか。改善の見込みがなければ役目を降りていただくことになる、と確かに伝えたはずです」
「こんのすけ!」
どうしてここでそれを話すのかと彼女は焦ってこんのすけの口を抑えようとしたが、管狐は軽く後ろへと跳んでその手から逃れた。
「もうこの本丸の中で知らない者はいません」
「なんで言いふらしたの!」
「言いふらしてはいませんよ。みなさんは疑問に思っていただけです。本当ならあの日、先ほどのことを伝えるつもりでしたが、あなたは錯乱して気絶してしまったので後日に延ばしました。あの時、あなたは確かに皆さんに知られたことを理解していたはずです」
彼女の脳裏に、服を着替えることをしないまま朝を迎えたときのことがよみがえっていた。
どうして着替えもせずに眠っていたのか、前日の記憶がなかったときのことだ。
あの時、刀剣男士たちの前でみっともなく喚いてしまう夢を見たと冷や汗をかいたが、けれどもしあれが本当だったとしたら──。
「どうして……」
「霊力の回復を図る様子もない。いっこうに改善されない。役目から降ろすという判断がされるのは時間の問題でした。今日を待ったのはある方の協力が必要だったからです」
「ある方……?」
こんのすけは彼女の問いには答えず、リンを振り返ると、お願いしますと声をかけた。
リンはうなずき、ではあの橋にしましょうと庭の池にかかる朱色の橋を指さす。
彼女は失礼しますと会釈してためらうことなく門をまたいで中に入ってしまった。
「勝手に入らないで!」
止めようとする彼女を抑えたのは歌仙だ。
「歌仙!」
「いいから黙って見ているんだ」
「ふざけないで!」
歌仙を振りほどこうとしたが、強い力で抑えられていて彼女の力ではかなわない。
リンは橋まで歩いて行って中ほどで止まると、足元に何枚かの札を貼っているようだった。
「私の本丸に何するつもりよ!」
彼女は抑えられたままリンに向かって吼えたが、当のリンは気にした様子もなく彼女を振り向いた。
「この橋を見立てに使わせていただきます。今よりこの札の先は、この本丸ではありません」
そう言ってリンは何もない空中を軽く指先で弾く。すると不思議なことに、景色の中に水面を揺らした時のような波紋が浮かび上がったのだ。リコはハッと息を呑む。
リンは二度三度とそこを叩き、波紋をいくつも生み出す。
そうして、大きな渦のようになったそこから、ぬっと音もなく、誰かの手が突然現れた。
それは手から手首、腕とつづき、そうして足先が札のそばに出てくる。
その様子を呆然とリコは見て、そうして体と声を震わせた。
空中の波紋の向こうから現れたのは、彼女がもっとも求めている存在だった。
「っ、あ……あ、ああ……大倶利伽羅っ!!」
歌仙兼定の抑える力がいくらかゆるんでいたこともあって、彼女はほとんど無意識で動いていた。
奇跡だ。奇跡が起こったのだ。
彼が現れた。彼が戻ってきた。彼が自分の元へと帰ってきてくれた──!
だが伸ばした手は届くことはなかった。
それより先に彼の抜いた刀の切っ先が彼女にまっすぐに突きつけられていたからだ。
あともう少し止まるのが遅かったら、間違いなく彼女の体に刃が突き刺さっていただろう。
「大倶利伽羅……?」
「……なんだ、運がいいな」
失望感をにじませて大倶利伽羅は吐き捨てる。
それは彼女に、二度目の鶴丸との衝突の時に言われた言葉を思い出させた。
「どうして……帰ってきてくれたんじゃないの……?」
「俺の帰る場所はここじゃない」
「大倶利伽羅!」
彼女の悲痛な声に彼は舌打ちして、刀をおろすと管狐を振り向いた。
「長居するつもりはない。さっさと終わらせるぞ」
「はい。ではこちらへ」
こんのすけが踵を返して保管部屋へと向かう後を大倶利伽羅が追う。
彼女はハッとしてそちらへと手を伸ばしながら駆けだそうとして、けれど三振りの刀に止められた。
リンの連れてきた鶴丸国永、へし切長谷部、前田藤四郎だ。
彼女にとって腹立たしいことにいつの間にかこの三振りも門の中に入ってしまい、いまは彼女の行く手を阻もうと囲んでいる。
「おっと。悪いな、彼の仕事の邪魔をさせるわけにはいかないんでね」
「そこをどいて!」
「ごめんなさい、リコさん。彼の協力が必要なんです。どうか静かに待っていてください」
「ふざけないで!あんたに私の邪魔する権利なんて」
背後のリンを振り向き、つかみかかろうと彼女が伸ばした腕を、ある刀剣男士がつかんで止めた。
その姿に彼女は愕然とした。
「大倶利伽羅……なんでその女をかばうのよ!」
大倶利伽羅は彼女をじっと見下ろし、そうしてため息をつくとつかんでいる手とは反対の手を彼女の目の前に突き出して見せた。
「……呆れたな。よくそれで自分が顕現したなんて言えたな、あんた」
彼女の眼前に掲げられた大倶利伽羅の左手首には、政府所属を示す色の紐が巻き付けられていた。
この本丸の二振り目の大倶利伽羅がとある用事で昨夜から本丸を離れている間、リンの刀である大倶利伽羅は代わりとしてここに滞在していた。
用事の内容を知ればこの本丸の審神者が黙っておらず、怒り狂うだろうことが予想されるために取られた処置であり、事情を知ったここの刀剣男士たちと精霊の子どもであるサクラは協力的で、万が一にも気づかれないようになにかと気遣ってくれた。
おかげで遭遇しても怪しまれることもなく一晩を過ごし、本来の主であるリンとここの審神者とのやりとりを何食わぬ顔で見ていた。
二振り目の大倶利伽羅が戻ってくるまでは知らぬふりを通すつもりでいたのだが、さすがに自身の主の危機を放っておくことはできず、やむを得ず飛び出して止めていた。
彼自身、鶴丸から入れ替わったことは一切この本丸の主である審神者に気づかれることがなかったという話を聞いていても、さすがに今回は気づくだろうと思っていた。
前の主が顕現した鶴丸国永とリンの刀である鶴丸の区別がつかないのは仕方なくとも、自分が顕現したと信じているのなら違和感を抱くくらいはあるのではないか、と。
ましてや一振り目の大倶利伽羅のことでこの審神者とは何度か顔を合わせているのだ。
先ほども精霊の子どもであるサクラが駆け寄ってきたときに視線は合っていたし、政府所属を示す紐も入れ替わりを明かす時のために朝から付けていた。
だがこうして自らの主をかばうに至るまでこの審神者が気づいた様子はなかった。
そんな、と彼女は呆然とつぶやく。
自分が顕現したと信じていた二振り目の大倶利伽羅と別本丸の大倶利伽羅を見分けることが出来なかったことに彼女は怒りよりも混乱と驚愕が取って代わったようで、勢いがなくなったのを確認して彼は手を離した。
お兄ちゃん、という声に彼女がほとんど無意識に視線を向けると、サクラが駆け寄った先にはこの場では三振り目になる大倶利伽羅の姿があって彼はまさにいま門をくぐろうとしていた。
彼女が強く求めている一振り目の大倶利伽羅はこんのすけと共に保管部屋に赴き、リンの刀である大倶利伽羅はいま目の前にいる。
なにより、サクラがそのように呼び慕うのはこの本丸に顕現した二振り目の大倶利伽羅である証だった。
二人の様子を呆然と見ていた彼女は、その大倶利伽羅の後ろからありえない姿が現れたことに驚き、次いで混乱した。体が戦慄で震えるのをどこか他人事のように感じていた。
「なんで……なんで、なんであんたがいるのよ!!」
彼女の憎悪の対象であり、存在すること自体が許しがたいそれ。
彼女を散々苦しめ、挙句に大倶利伽羅を奪っていった憎らしい相手。
前の主が、二振り目の大倶利伽羅のそばに立っていた。
その姿が現れたことで、それまで静かに見守っていたこの本丸の刀剣男士たちの間にざわめきが広がった。
「主……!」
山姥切国広が思わずといった様子で駆け寄り、そして戸惑いながら手を伸ばすと、主はそっとほほ笑んで、彼の名を呼びながら伸ばされた手をそっと握った。
二度と触れることはないと思っていた主の手の確かな感触に、山姥切は唇を噛んで顔をうつむかせた。
他の仲間がいる前で泣きたくはなかったがどうしても視界がにじむ。
「主さん!」
「あるじさん!」
愛染国俊、乱藤四郎が駆け寄って共に抱き着く。
主が呪いのせいで声を失ったことで、別れの時さえ言葉を交わせなかった悲しみが今になって彼らの胸に広がり、いまの状況も忘れて行動に移させていた。
それぞれの名を呼ぶ主の声も呼び方もひどく懐かしい。
「なにうずうずしてんのさ、清光」
隣で加州清光が身じろぐ気配に、主に視線を注いだまま大和守安定が口にする。
彼には見なくてもわかる。加州が主の元に駆け寄りたいと思っていることを。けれどどうしてか足が動かないのだろう。それが大和守にはよくわかった。なにしろ彼も同じなのだ。
「ぼんやりしてないで行って来い!!」
そんな二人の背中を強い力で和泉守兼定が叩いた。その声には隠しようのない喜びがある。
乱暴だなぁと堀川国広が苦笑する声を背に、二人は押されるように駆けだした。
「泣いているのか、長谷部」
「っ、黙れ。泣いてなんていない」
背後から掛けられた声にへし切長谷部は反射的に返して、そうして短く鼻をすすった。
そうかと返しながら、巴形薙刀は長谷部の隣に並ぶ。
二人の視線の先には、愛染国俊や乱藤四郎を皮切りに短刀の男士たちが集まって主を囲んでいる光景がある。
そういえば、今の主の周りにああして男士たちが集まって笑いあっているのを見たことがあっただろうかとふと長谷部は思った。
二人が見つめる視線に気づいたのか、あるいは周りに言われたからか主は彼らのほうを見て、そうして手を振って、長谷部さん、巴さん、と笑顔で彼らを呼んだ。
二人は同時に一歩を踏み出した。