廊下の掲示板の前に鶴丸国永が立っているのを見つけて、にっかり青江と御手杵はふと何かが引っかかり、顔を見合わせると少しばかり警戒しながらそちらへと近づいていった。
「鶴丸さんは、どうしたんだい」
青江が問いかけると、その鶴丸国永は肩越しに振り向いて、目を細めた。
「やっぱり同じ主から顕現してないってのはわかっちまうもんだな」
そう言って、その鶴丸は腕を組んで大きく二度三度とうなずいた。
二人が声をかけたのは、この本丸に顕現している彼らの知る『鶴丸国永』ではなかった。
警戒する二人に、ここでは誰に聞かれるかわからないと言って、その鶴丸は場所を移そうと提案する。
敵意は感じないが、いったいどこの本丸の刀剣男士が侵入したのかと不審がる二人をよそに、鶴丸は鍛錬所へと向かうと中に誰もいないのを確認してから、二人に入るよう手招きする。
「いったいきみは何者、というかどこの本丸の鶴丸国永なのか、教えてもらおうか」
硬い声の青江に問われた鶴丸は懐から一本の紐を取り出し、自分の手首に巻いてみせた。二人はその紐の色に見覚えがあった。
「……ってことはあんた、政府の」
思わずといった様子の声を上げた御手杵に、静かに、と声を潜めて鶴丸はうなずいた。
「昨夜から入れ替わっていてな。ここの俺はいま政府庁舎のほうで待機してもらっているよ」
「昨夜、ということは、サクラと帰ってきたのはあんたなのか?」
「ああ。しかしあの子はいい子だな。物怖じもしないし」
「それで、なんのために入れ替わりを?」
「もちろんこの目で噂の保管部屋を確認するためさ。知っていると思うが、きみたちの前の主は少し前にこの本丸へ様子を見に来た」
二人はうなずく。
発端は前の主の新盆を山姥切国広が気にしていたことだった。
そのことをにっかり青江も御手杵も知っていたが、今の主には相談も出来ない。
そこで山姥切はこんのすけと話し合い、せめて主の位牌だけでも手元に置けないかと考えた。
小さな仏壇を用意し、大々的な供養はやれないにしても好物を供えることくらいはしてやりたい、と。
「その話がうちの主の耳に入ってな。リンという名で、きみたちも顔は見ていると思うんだが」
彼岸と此岸の間で役目に就くこの本丸の前の主に、向こうでそばに仕える老いたこんのすけがそのことを話して、本丸に様子を見に行ってはどうかと提案した。
そうして前の主はひっそりと本丸に老こんのすけと共に帰ってきて、保管部屋の状況を目の当たりにした。
痛ましい思いを抱きながら偶然触れた刀、それが二振り目として顕現することになった大倶利伽羅の刀だった。
そのことは青江たちはこんのすけを通して聞いていたので目新しい驚きはなかったが、そこから先の話には二人は驚愕した。
「ところが厄介なのを連れ帰ってしまったらしくてな。魂が穢れて寝込んでしまったそうだ」
青江と御手杵は共に目を見張って、そうして顔を見合わせた。
「本来なら与えられた力が対抗するはずが、どうも前の主に狙いを定めた邪気だったらしく強力で、飲み込まれてしまったそうだ」
「向こうに大倶利伽羅が一緒にいるはずだ。あいつはどうしたんだ?」
御手杵の問いに鶴丸は答えていいものかと一瞬悩み、そうしてため息と共に答えた。
「……当然というべきだろうが激怒していたと聞く。彼の魂に与えられた力は癒しではなく、邪気や妖気を斬って祓う力なんだが、さすがに自分の妻の魂を斬り祓うわけにもいかないからな。そばにいてこれ以上穢れが進行しないようにするのが精いっぱいらしい」
「……あの子に狙いを定めた邪気」
眉を寄せてつぶやく青江の声は硬い。
「向こうのこんのすけが誤認してない限り、まず間違いなくこの本丸の今の主が理由だ」
にっかり青江と御手杵は驚愕を表情に出したが、それは原因が今の主であることに驚いていない自分たちに対してだった。
「……ひどいもんだな。どいつもこいつも『使い物』にならない」
淀みが刀を錆びさせていると鶴丸は眉をひそめた。
にっかり青江と御手杵は、リンの刀である鶴丸国永を保管部屋に案内した。 そうしてそこを見るなりの第一声がそれだった。
この場合の使い物にならないというのは、刀剣男士に連結や習合と言った形で強化させるための力すら持たない状態を指す。ましてや顕現などかなうはずもない。
サクラと、そしてこの本丸に顕現した二振り目の大倶利伽羅の検査のとき、鶴丸は主である審神者のリンと共にその様子を見ていた。
その時にこの保管部屋のことを話には聞いていたし、この本丸のこんのすけがしていた調査の内容も知った。
当の大倶利伽羅自身が、自分がおそらくあの中では新しい刀だったのではないかと言っていた。
保管部屋にあった他の刀はもはや錆びて使い物にならず、自分も錆びかけてはいたが、かろうじて力を失わずに済んだタイミングで前の主があの場所に現れたのではないか、と。
彼が目覚めたのと、実際に肉体を持って姿を現したタイミングがずれたために、今の主は事故であっても自分が顕現させたと思いこむ結果になったのだろう。
「しかしまあ、よくこんな部屋を放置してきみらは平気で生活できているな」
足元にゆっくりと忍び寄る影を鶴丸は踏みつけながら顔をしかめた。
二振り目の大倶利伽羅は、顕現後にここで待機していた時、黒い影がまとわりついてきたのだと言っていた。部屋を出ようとしたら誰かに引っ張られる感覚があったのだとも。
この保管部屋には怨念や執念といった負の感情が集まり留まり、やがて邪気や妖気と呼べるものに成り果てたものが棲みつき、支配するようになってしまったのだろう。
おかげで短時間であっても居るだけで不調をきたすほどの場所に変わってしまった。
「平気とは言えないけれどね。なるべく近寄らないようにしているだけさ。普段は扉を閉めて鍵をかけているし」
青江の返答に、なるほどとうなずいて鶴丸は戸を閉めた。
鍵も掛けてまとわりつくものを振り払うように頭を振る。
「帰ったら主に水ぶっかけられそうだな」
「……水をかけて穢れが落ちるのかい?」
「主が毎朝清める水だ。そこらの浮遊霊が触れたら一発の代物だよ。ただやたらに冷たいんだよな」
その冷たさを思い出したのか、鶴丸は身震いしてみせる。その様子に青江と御手杵は思わず笑っていた。
投げ出された手を握りしめて、大倶利伽羅は深く息を吐きだした。
彼を顕現した審神者であり、そしていまは妻でもある主が穢れに憑かれて、現世の時間にして一月以上が経つ。
彼が主とこの場所で夫婦になると同時に就いた役目で与えられた力は邪気や妖気を斬り祓うもので、けれどそれを主に対して振るうわけにはいかなかった。
そうなれば役目という枷ごと魂を断ち切って消滅させてしまう。
だからこうしてそばにいて手を握り、穢れに抗って目を覚ましてくれることを願って、彼の力を少しずつ与えてやるぐらいしかしてやれることがない。
「……主……__」
名前で呼ぶことに彼自身が慣れ、そして妻である主もまた慣れてきてくれていたのに。
「もう二度と、あんたを失わずに済むと思っていたのに……」
死してなお大事な存在を失いそうになっているなど、どうして過去に想像が出来ただろう。
思い出すのは主が生前に呪いで苦しんでいた時のことだ。
死ぬ前は忘れていたはずの彼の記憶は、魂だけになってすべてがよみがえった。
主を看取り、見送ったことも、本丸を引き継いだ審神者を主として一度は受け入れたことも。
新しい主となった、本丸を引き継いだ審神者。
その存在を認識するだけで腹立たしい気持ちになって、大倶利伽羅は歯噛みし、空いている手を強く握りしめた。
可能ならあの引き継いだ審神者に関するすべてを、一時でも主として受け入れた事実を記憶から消し去ってしまいたい。
「大倶利伽羅殿。すこし休まれてはいかがです。魂だけで受ける疲労は、生きている者の比ではありません。主さまが元気になられてもあなたがそれでは悲しまれるでしょう」
手を握ってそばに付き添いつづけて以来まともに休んでいないため、大倶利伽羅の顔には疲労の色が濃く出ていた。このままでは主が目を覚ます前に倒れてもおかしくないと老こんのすけは休むよう勧める。
こんのすけが休むよう勧めてくるのはこれが初めてではない。
大倶利伽羅は最初は苦しんでいる主のそばから離れるわけにはいかないと退けてきたが、さすがに彼自身も限界が近いことを認めなければならなかった。
無理をしたと知れば、主はきっと泣きそうな顔をして彼を叱るだろう。彼は主にそんな顔をさせたいわけではなかった。
「……わかっている。いま少し眠ろうと思っていた」
心配そうなこんのすけに、力の無い声で答えながら大倶利伽羅は主の横たわる布団のそばに身を横たえた。
「そこで眠っても休めないですよ」
自分の布団で休めというこんのすけに、大倶利伽羅は無言を貫いた。
休むことは承知できても、手を離すことやそばを離れることだけは出来ない。
きっと今も懸命に穢れに飲み込まれまいと戦っているだろう主を一人残して、自分の布団で眠ろうという気にはどうしてもなれなかった。
よほど疲労していたようで、大倶利伽羅は横たわってすぐに寝入ってしまった。
その姿を眺めて老こんのすけはやれやれと首を振り、そうして尻尾を振って掛け布団を空中に出現させると、横たわる体の上にそっと掛けてやった。
「おやすみなさい、大倶利伽羅殿」
深く、深く沈んでいく感覚に大倶利伽羅は目を開いた。
目の前に広がっていたのは真っ暗な海のような静けさに満ちた空間で、それは本丸にいたころに鶴丸国永に巻き込まれる形で観ることになった映画の一場面を思い起こさせた。
物悲しくどこか恐ろしげな、深海へと沈んでいく視点の映像だった。
苦しむ主を気にかけながらも疲労を無視しつづけることには限界があった。
老こんのすけにうながされて、少しだけ眠ろうと横たわったはずだ。ならばこれは夢なのだろうか。
このまま沈んでいったらどこへたどり着くのだろうと思い、そういえば主の元にたどり着く前にも、こんなふうに沈んでいく夢を見た覚えがあったことを思い出した彼は、身じろいだ。
もしも主から離れてしまうことになったらと思うと、途端に恐怖が襲ってきたためだが、足首を何かにつかまれる感覚があった。
視線を向けると黒い手のようなものが彼の足をつかんでいて、しかも彼を深い底へと引きずり込もうとしている。
大倶利伽羅は身をよじり、蹴って振り払おうとしたがそれを上回る力で引っ張られてしまう。
黒い手は彼の体を覆いつくそうとでもいうように全身にまとわりついてくる。
大倶利伽羅、と彼を呼ぶ声がした。人のものとは思えない濁った泥のような声だった。
許さないと地を這うような低さのうめき声がそれに続き、離さないと耳元でささやかれた言葉には情念が満ちていて、そのおぞましさに思わず息を呑んだ。
──その声には不本意ながら聞き覚えがあって、これが主を苦しめているモノの正体かと大倶利伽羅は歯噛みした。
主の前だからと遠慮などせずに、やはりあの時に腕の一本でも斬り落としておけばよかったと悔やむ。
怖がらせたくない、怯えさせたくない一心でありもしない情けを掛けるのではなかった。
そうすれば、主を死んでなお苦しませることもなかっただろう。
舌打ちした大倶利伽羅が頭上へと手を伸ばすと、先ほどまではなかった一筋の光が彼と彼に襲いかかる黒い手に差し込み、その中に彼がもっとも慣れ親しんだ刀の柄が現れた。
強く握り、そうして刀を振るうとまとわりついていた黒い手は彼の体から剥がれていくと同時に金切り声とすら呼べない、聞くに堪えない断末魔があたりをつんざくように響いた。
黒い手とおぞましい声は消えた。
大倶利伽羅は周囲を見回し、そうしてうずくまる人影を見つけてそれへと手を伸ばした。
すべてから守るように身を縮こまらせて震えている主の体を抱きしめ、遅くなってすまないと声をかける。
ゆっくりと上がった顔には疲労の色が出ていたが、主は大倶利伽羅の名を口にして安堵の表情を見せた。
そして手を伸ばして彼に抱きつき、もう会えないかと思ったと声を震わせた。
大倶利伽羅が目を開けると、ぼやける視界に映る顔があった。頭を撫でる感触に目を瞬く。
その姿がはっきりしてくるにつれて自分の状況を振り返る余裕が出来た。
彼を優しい表情で見つめる主の顔と、後頭部に感じる主の脚。
幾度となくされたことのある膝枕の感覚にそっと息を吐きだして、主の頬へと手を伸ばした。
「……いつ起きたんだ」
彼が伸ばした手の甲をさすりながら、主はおはようとほほ笑み、ついさっき目が覚めたのだと言った。
助けてくれてありがとうと彼の手を握りしめる。
大倶利伽羅は身を起こすと主の体を強く抱きしめた。
夢の中で抱きしめた時よりも確かな実感が欲しいと思ってのことだが、背中に回る手の感触と、彼の名を呼ぶ優しい声が彼にもたらした喜びは想像以上だった。