「主、書類の誤字が目立つようになってきました。少し休まれたほうが良いのでは」
近侍を務めるへし切長谷部の声にペンを動かす手が止まった。
顔を上げると、心配しているというよりいさめるような長谷部の表情があり、確かにそうかもしれないとうなずきながらペンを置く。
「では、お茶の用意をしてきますね」
そう言って優秀な近侍は立ち上がると部屋を後にした。
その背を見送りながら、やはりかなわないな、と審神者はため息をつく。
立ち上がり、大きく体を伸ばしてふと何気なくだが執務室の外に顔を出すとちょうど視線の先、庭の池にかかる朱色の橋に、いまはできれば見たくない姿を見つけ、慌てて背を向けた。
ため息をついて折りたたんでいた卓袱台を広げ、休憩用に最近買ったビーズ素材のクッションを動かしてそれに腰を下ろすと息を吐きだして寄りかかった。知らずまぶたが下りていた。
「お待たせしました、主」
声をかけながら執務室に入った長谷部が見つけたのは、クッションに寄りかかって眠る主の姿だった。
お盆を静かに卓袱台に置くと、部屋の隅に置いている毛布を広げて主の体にそっとかける。
ここのところ、主の体調が万全ではないことに長谷部は気づいていたので、幾度となく休むように進言をしていた。
夜にあまり眠れていないことは見回り当番の男士たちの間で情報共有がなされていたし、何より顔色が悪いのは明らかで。
ただ長谷部が困ったことに彼の主には妙に頑固な部分があって、そういった提案なり進言なりはあまり迎え入れられることが少ない。けれどそれは主としての狭量さというより、単に意地を張っているだけに過ぎないこともわかっていた。
心配している、という表情で休むことを促すよりも、さりげなさを装って、そして無視できない部分を指摘すれば、主の性格からして受け入れることが多いことはすでに学習している。
手書きは苦手としている主だ。案の定、長谷部の指摘に恐ろしいものでも見たかのような表情を浮かべ、手を止めていた。
それにしても、と長谷部はそっと息を吐いた。
主の体調が万全ではない理由の推測はついている。
ただそれを考えると不愉快な気分にしかならないが、こうして何もしない時間があるとつい考えてしまうのだ。
主と恋仲であり、今はその記憶を失っている大倶利伽羅のことを。
この本丸に顕現して数年経つが、長谷部はいまだに大倶利伽羅という刀をよくわかってはいなかった。
元の主つながりでよく話す男士は別として、日常を送る中で会話する相手というのは増えてくるものだ。
もちろん刀の数が増えれば、一日の中で言葉を交わすこともないままということもあるが、それでも相手のことはそれなりに知っていく。
だが大倶利伽羅のことだけはよくわからない。そもそもサシで話したことがあっただろうか、と長谷部は思った。
声をかけることはあっても、主からの指示を伝えるといったような一方的な連絡だけで、会話と呼べるようなものではない。
だからこそ主と恋仲であると知ったとき、長谷部はひどく驚いた。
自分は主のそばに多く侍っているという自負があったのに、それを砕かれた気分だった。
長谷部は主に対して恋情を抱いてはいなかったが、主にもっとも信頼され、重用される刀でありたかった。
いずれは山姥切国広さえも追い抜き、誰よりも信頼される存在に、一番になりたい、と。
審神者にとって、示された五振りから最初に選ぶ刀は重要だ。
選ぶというそれだけで、主の中で特別になる。
実際、この本丸でも最初の刀である山姥切国広に対する主の信頼には揺らぐものがない。
まず何かあれば主は彼に頼るし、二人が交わす言葉には二人だけにしか作れない空気がある。
それを目にするたびに、越えるべき壁の高さを突きつけられてしまう。
そんななか、気がつけば大倶利伽羅が壁を越えて、当然のように主のそばに立っていた。
最初の刀でもなければ、近侍として主を支えた実績など無いに等しいのに、主から想いを告げられたというただそれだけで長谷部が望んだ位置に限りなく近いところに居るのだ。
その時に抱いたものが怒りだったのか、悔しさだったのかは長谷部自身にもはっきりしない。
わかっていることはいまこの瞬間、長谷部は大倶利伽羅に対して憤っているということだけだ。
記憶を失うことはどうしようもないことだ。大倶利伽羅自身にそんなつもりがあったとは思わない。
だがなぜ主を避けているのか。これが長谷部には解せないことだった。
なれ合うつもりはないと言い放ち、主を主とも思わないような態度の彼ならば、たとえ記憶を失っていようと長谷部は以前にあったことだとさして気には留めなかっただろう。
恋仲という関係を忘れられた主にとってはつらいことだろうが、それでもいつかどこかで立ち直ると、そういう主なのだと長谷部は信じていた。
だからこそ、避けられているという事実が主に与える影響を見過ごせないとも思った。
主が夜に眠れなくなったのはきっとそのせいだろうと確信していたが、その一方で避けている理由を本人に問いただそうと思ってはいなかった。
主が何も言わずにあえて距離を取っているのなら、自分も余計なことをせずに主を支えればいい、と。
大倶利伽羅が立っていた位置は、いまは誰もいない状態だ。そこに収まろうとは思わないが、けれど限りなく近い位置は欲しいとも思ってしまうことはどうしようもない。
わざわざ行動を起こす必要はない。
記憶を失ったことが事故ならば、記憶が戻るのも、そのままなのもそれがあるべき形なのだろう。
「主のそばを取られたくなかったら、さっさと全部思い出せ」
ほとんど無意識に口をついて出たつぶやきに、長谷部は忌々しそうな表情を浮かべた。
座卓に肘をついてどこか遠くへと視線を投げ、心ここにあらずな様子の和泉守兼定の前に、堀川国広は湯呑を静かに置いた。
「兼さん、お茶が入ったよ」
「……」
だが思案に沈んでいるらしい和泉守の表情は曇っていて、堀川の声は聞こえてはいないようだ。
それを眺めやって堀川はため息をつくと自分の分のお茶を一口飲んだあと、和泉守の顔の前で両手を思い切り打ち合わせた。
「ッ、ってなんだ!?……んだよ国広か」
音に驚いた様子で和泉守はあたりを見回し、そうして自分を見やる堀川の視線に気づいて頭を掻いた。
「もう兼さん、ぼんやりしてるとお茶が冷めちゃうよ。そもそも熱いのを淹れてくれって言ったのは兼さんなのに」
「そうだけどよ。せっかくの考え事がおかげで散り散りになっちまったじゃねーか」
息を吐きだして、和泉守はしぶしぶ湯呑を手に取り、一口飲む。
「考え事?」
「ちょっと引っかかることがあってさ」
大倶利伽羅のことで。そう言って和泉守はもう一口飲む。
「大倶利伽羅さん?まあたしかに記憶をなくしちゃったことは気になるけど」
「それもだが、そもそもどうして記憶を失った?やつが戦ったのはあの時が初めてってわけじゃない。それこそ折れる寸前の重傷にだってなったこともある。けど、誰もいままでそんなことはなかった。それが気になってよ」
「確かに。ということは敵にやられた傷が理由じゃないってこと?」
「ああ。考えられるのはどこかで頭を打った可能性だ」
だが、あの時部隊長だった山姥切国広の指示で和泉守たちは大倶利伽羅を慎重に運んだ。
どこかにぶつけるなんてことはなかったように思うし、そもそも大倶利伽羅が倒れた時も、どこかに頭を打ち付けたような様子はなかった。そして当時、あたりの地面は雨にぬかるんでいたが、障害になりそうな大きな石や岩などはなかったのだ。
「オレたちだって記憶は失うことはある。だが今のオレたちの形で、傷を負って治ったら記憶を失ってるなんて今までなかっただろ。それがどうにも解せなくてな」
「僕たちは刀の時代のことを全部覚えているわけじゃない。いろんな理由で忘れてしまうこともある。でも今は違う……」
「……まあこればかりは考えてもらちが明かねーから置いておくとして。気になるのはあの時の大倶利伽羅は何かこう、いつもと違っていた感じだったことだ」
「いつもと違う?」
「これは加州から聞いたんだが、妙に深追いしているようだったって言っていてな」
「でも大倶利伽羅さんってそもそもあまり他と連携をとるってタイプでもないような。わりと飛び出すことも多いよね」
結果として負傷する率も高いため、順位にすれば大倶利伽羅はかなり上位に入るだろう。出陣する部隊に組まれることが多い分それは顕著だが、主は口に出しては何も言わない。
ただ時々表情を少し曇らせるのを、堀川も和泉守も知っていた。
「まあな。あいつは誰かを率いたりとか、率いられるのを好まない……」
うなずきながら、ふと何かに気づいたのか、和泉守は言葉を切る。
「兼さん?」
「……まてよ、そういやなんであの時の部隊長が大倶利伽羅じゃなかったんだ?」
「あれ、そういえば確か兄弟が」
「ああ、山姥切だった。ずっと大倶利伽羅が部隊長だったのにあの時は違っていた」
「でも、主さんだったらよくあることじゃないかなぁ。たまに何を考えているかわからない編成をする時があるし」
「それを言われるとオレは何も言えないが。けど……いや、そうだ、主が言ってた。しばらく大倶利伽羅を部隊長で固定するって」
「そうなの?」
「間違いねーよ。なにしろオレ自身が聞いたんだ。オレを部隊長で出陣させてくれって頼みに行ったときにな」
「そういえば、大倶利伽羅さんが部隊長になることが多くなったのって修行から戻ってきてからだったよね」
そう堀川が言って、思わずといった様子で和泉守の顔を見ると、彼は表現に困ったような表情を浮かべていた。ついでに言えば、主と大倶利伽羅が恋仲になったことに加州清光が気づいたのも同じ頃だ。
「ま、まあその程度のひいきぐらいな、大目に見てやりたいよな」
「僕は何も言ってないよ、兼さん。それに、大倶利伽羅さんは修行に出る前からわりと戦いには出てた気がするけど」
「まあそうだが」
「でも出陣の頻度は高くても、修行に出る前は別に固定じゃなかった。主さんは理由を言ってなかったの、固定にすることの」
「いや、しばらく大倶利伽羅に部隊長をしてもらいたいって言ってたな。希望に添えなくて申し訳ないって謝られちまったからさ、理由を聞く気がそがれたっていうか」
「たぶん、主さんのことだしそこまで深い意味はないのかもしれないよ」
「なんだその別の意味での信頼は」
和泉守は乾いた笑いをこぼし、よくわからんと首を横に振り、もう一口お茶を飲んだ。
「主。すこし……なんだ、寝ているのか」
執務室に入ってきた山姥切国広はクッションに寄りかかって眠っている主を見て声を潜めた。
「なにか急ぎの用か?」
そばで静かに見守っていた長谷部が尋ねると、山姥切は後でいいと首を振る。
邪魔をした、と執務室を後にしようとしてふと振り向いた。
「長谷部。大倶利伽羅がどこに行ったか知らないか?」
「いや、見てはいない」
どことなく突っぱねるような様子の長谷部に、山姥切は首をかしげた。
「大倶利伽羅と何かあったのか」
「何もない。奴はここに近寄ろうとしないしな。俺も主からの命でもなければわざわざ声をかけたりしない」
何もないと言いながら、長谷部は明らかに大倶利伽羅に対して不満を抱え、腹を立てている。だがそうと指摘するつもりはない山姥切は、そうか、とだけ言って部屋を後にした。
庭に面した廊下を歩きながら、山姥切国広はふと足を止め、執務室の方を振り向いた。
そうして、珍しいこともあるものだと思いながら軽く首を振って再び歩き出す。
山姥切が知る限り、へし切長谷部と大倶利伽羅はこの本丸に顕現以来、個人的な会話を交わしたことがなかったはずだ。
ただこれは険悪な関係というより、必要が無いから関わらないだけのようで、主からの指示を伝える時に長谷部から声をかけて大倶利伽羅が了承する、その程度のやりとりで終始する。
もっとも大倶利伽羅自身がなれ合うつもりはないと公言していたのでやりとりが少ない男士は長谷部だけに限ったことではないし、本人たちにとっても別に問題はなかったのだろう。
親しくしなければならないわけではないし、線引きをしていればいらぬ諍いも起こらない。
だからああして直接口に出さなくても不満を抱いているという態度を長谷部が見せるのは珍しいことで、そしてその理由が山姥切には推測できた。というよりこの本丸にいる男士の大体は気づいているはずだ。
「少し、相談してみるか」
つぶやいてため息をついた。