加州清光の視線の先、庭の池の上にかかる朱色の橋に男女が立っていた。
男のほうはこの本丸の刀剣男士である大倶利伽羅であり、女はひと月半ほど前、この本丸に実地研修として配属された見習いだ。
「めげないねー、後輩ちゃん」
そうつぶやく加州の声はいくらか呆れた様子だ。
それを受けて大和守安定が手元の本から視線を上げ、そうしてわずかに眉を寄せる。
「いまがチャンスだからね。そりゃそうだ」
「チャンスって言っても、どう考えても大倶利伽羅にうっとうしがられてるのにそれでもグイグイ行けるの強すぎじゃない?」
「いいんじゃない。図太い神経してれば審神者になってもうまくやれるよ。ほら、あきらめないって大事っていうし」
「……安定、もしかして興味ない?」
「んー、清光の言う興味がどの範囲にかかってるかによるかな」
「主と大倶利伽羅の行方とか?」
「そっちには興味あるけど、後輩ちゃんがどう出るかはあんまり興味ない。そもそも最初から脈なしだったと思うけど」
「……だといいけどね」
そんな会話をしているあいだも加州の視線の先では、見習いが大倶利伽羅に話しかける姿があったが、彼女が何を話しているのかまでは聞こえない。
ただ、様子を見る限り仲良く会話をしているようには到底見えなかった。一方的に話しかける彼女に対して大倶利伽羅はそこから立ち去ることはしていないが、無視をしている状況だ。
話を聞く気が無いのなら立ち止まらなければいいのにと加州がぼやくと、大和守は肩をすくめた。
「後輩ちゃんってさ、たぶん自分から追いかけたいタイプなんじゃないかな」
「……で、それを大倶利伽羅も察している、と」
「あるいは経験済みとかね」
見習いの彼女を、刀剣男士たちは『後輩』と呼んでいた。
その呼び方は、彼女がこの本丸の主である審神者を『先輩』と呼んでいることに端を発している。
見習いは、刀剣男士に対して敬意を払いつつも、臆することなく朗らかに接してきていた。
どことなく、今の主と似たような距離の近さを感じて、気軽に会話を交わせるようになるのに時間を要さなかった。
ある時など、菓子を手に彼女が加州清光と大和守安定の部屋にやってきて、居合わせた和泉守兼定と堀川国広とともにお茶の席を囲んだこともある。
その時は本丸の日常の話でそれなりに盛り上がったりもしていた。
研修期間は三カ月から長くとも半年だそうで、きっと終わるころにはさみしく思うかもしれない、と思う程度には会話ができる相手だった。
思い出すのは何度目かの彼女との会話で、とある刀剣男士の名前が挙がった時のことだ。
そういえば、とその名を挙げて彼女は話を切り出した。
大倶利伽羅さんって、素敵ですよね、と。
その場にいたのは加州と大和守と堀川国広と見習いの四人。和泉守兼定は主に呼ばれ、離席していた。
「……は、なに急に。後輩ちゃんどうした?」
加州が思わずまじまじと彼女の顔を見ると、うっすらと化粧の下から赤い頬が透けていた。
彼女いわく、資材置き場で在庫管理をしていたら、棚から落ちてきた物から偶然通りかかった彼がかばって助けてくれたのだという。
最初に挨拶したときは怖い人なのかと、どことなく苦手意識があったが、改めて礼を言ったときには最初に感じた苦手意識は薄れていたのだそうだ。
「それからなんとなく気になって目で追っているうちに……」
いつの間にか苦手そうな相手から、好意にも似たものを感じるようになっていったという。
「……ふーん」
口に出しての加州の反応はその程度であったし、大和守も堀川も同様だ。
下手に大きく反応しなかったのは面倒ごとを避けるためであった。
彼女は大倶利伽羅を素敵だと言ったし好意に似たものを感じているとも言ったが、明確な恋心とは言わなかった。
だから下手に触れて彼女の心をどんな方向であっても変えてしまうことだけは避けたかったのだ。
なにしろ大倶利伽羅には恋仲の相手がいる。それは誰あろう、この本丸の主である審神者で。
大倶利伽羅が修行から戻ってきた後、二人は恋仲になった。
そのことに気づいた加州たちは静かに見守っていたが、大倶利伽羅に突然見合いの話が来たことで二人の仲は危うく崩壊しかけた。
危機は去り、その後急激に進展したわけではなかったが、穏やかに育んでいくだろうと考えていた矢先、見習いである彼女はやってきた。
だから二人がそのような仲だということを後輩に教えて余計な面倒が起きるのは望んでいなかったし、頭の隅でどうせ大倶利伽羅は他からの好意などに見向きもしないと考えていた。
普段から親しく話す相手ではないが、それでも加州も大和守たちも、大倶利伽羅はそういう男だと信じて疑わなかった。
主を見る大倶利伽羅の、ほんのわずかに和らいだ表情の横顔を見ればきっと誰だってそう思うはずだ、と。
そんな確信が覆されるなど、思ってもいなかったのだ。
あの日の戦場には激しい雨が降っていた。
雨で視界は十分にきかず、足元はぬかるんでうっかり取られそうになるほど悪い。
誰も油断はしていなかったはずだが、けれど劣勢に追い込まれて焦りはあった。
そんななかで大倶利伽羅は誰よりも敵に向かっていて、それは加州の目にはいつにもまして深追いしすぎているように映った。
加州が相手をしていた敵を倒してふと視線を転じた時、敵の槍が大倶利伽羅の体を貫くのが見えた。
瞬間、加州の脳裏をよぎったのは、主と大倶利伽羅が二人一緒にいる光景で。
即座に本丸に帰還して、すでに意識を失っていた大倶利伽羅はすぐに手入部屋に入れられた。
手入をされて傷がふさがっても、けれど目を覚ます気配はなく、結局目覚めたのは丸一日経ってからだった。
そしてようやく目覚めた大倶利伽羅は、本丸での記憶の大部分を失っていた。
正確には、彼の記憶は顕現した数日後にまで戻っていた。
主の最初の刀である山姥切国広から数えて十七振り目の大倶利伽羅は、比較的初期の顕現だと言える。
記憶の大部分が失われたということは彼にとって今いる刀剣男士のほとんどが知らない顔ということになり、彼からすれば朝に目が覚めたら急に刀剣男士の数が増えていて、しかも一年以上経過しているという、想像するだに恐ろしい状況なのだ。
だから元々の彼を思えば周りに対して警戒を見せるのも当然といえば当然だった。
けれどどうして主に対しては、警戒以上に避けてさえいるのだろうと、加州はさみしさと苛立たしさを同時に感じていた。
審神者として彼を顕現させ、本丸の主であるという認識は彼の中にあるはずで、最初の顕現後だってこれほどではなかった。主自身も、大倶利伽羅に避けられていることに気づくと早々に必要以上に近寄らないようになったことにもまたさみしさを感じた。
主に対して、大倶利伽羅に本当のことを言わなくていいのかと加州はつい訊いていたが、言うつもりはないと首を振っていた。記憶のない彼には何を言ったところでそれが本当かどうか分らない。
自分たちの関係を証明するものが何もないからと、眉を困惑気味に下げて笑う顔に、加州はふいに泣きたくなった。
「記憶がないのをいいことに、いくらでも嘘が言えてしまうからな。伽羅坊にはそれを確かめるすべはない。まあ端から嘘と決めて確かめもしない可能性のほうが高いか」
きみにしちゃ悪くない判断だ、とたまたま居合わせていた鶴丸国永が主の頭を慰めるように撫でながら言った。
表情や動作とは裏腹に、その口調には彼に珍しくどこかやり切れないとでもいうような響きがあった。
そこへきて、見習いである彼女が大倶利伽羅に急激に近づくようになった。
それより前から折に触れて話しかけたりしていたようだが、それが目に見えて頻繁になった。
記憶を失う前でも大倶利伽羅が見習いの彼女を特別気にかけているわけではなかったので、記憶の上では知らない男士に対するのと同じかあるいはそれ以上に警戒しているのをみても、それは当然だろうと大して気にしてはいなかった。
だが彼女はそんなそっけないどころかあからさまに警戒をあらわにされても、めげずに話しかけているようだ。
今は大丈夫でも、いずれ大倶利伽羅が彼女に絆される可能性はゼロではない。
もしそうなったら、避けられている主のほうが不利になるだろう。記憶が戻る保証もないのだ。
もしもこのまま、大倶利伽羅の記憶が戻らなかったら。主のことをわからないままだったら。
そう思うと、加州はやりきれなさに息を吐きだし、そうして視線を外して机に突っ伏した。
庭の橋の上からすでに二人の姿は消えていた。