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亡失の呪い-if 21-

大倶利伽羅の魂がいるという彼岸と此岸の間へ、老こんのすけに案内されて彼女はたどり着いた。
そこは長い川が流れるどこか薄暗い世界で、死に近い所だということを嫌でも感じとることができた。
彼女は身を震わせ、大倶利伽羅はどこにいるのかとあたりを見回す。
「この先に主さまが管理する屋敷があります。大倶利伽羅殿はそこにいるはずですが……」
そこに案内して、と言いかけた彼女の視線が、ある個所に釘付けになった。

川べりに、二つの人影があった。
見間違えようのない、大倶利伽羅と、そして前の主が並び立つ姿だった。
彼女が一度としてその目で見たことのない、穏やかな大倶利伽羅の横顔が、前の主に一心に向かっている。
その忌々しい事実に彼女の心は一瞬で嫉妬と憎悪に染まり、その足を駆けさせていた。
後ろから老こんのすけが止める声が聞こえたが、それはなんの意味もなかった。

「大倶利伽羅!」
駆け寄った彼女は前の主と彼を引き離すように割って入って、勢いのまま前の主の頬を平手打ちした。
打たれた頬に手をやって呆然とするそれを前に、彼女は怒りのままに叫んだ。
「彼から離れて!死んでまで彼を縛らないで!」
彼を返して、という言葉は音になるより先に、その肝心の彼によって地面へと膝をつかされた格好で押さえつけられて吐き出す先を失った。背中で腕を捻り上げられているからか、痛みが走った。
首をひねって背後を見た彼女は、息を詰めた。
敵意、あるいは憎悪。そう表現するにふさわしい感情を宿した冷たい金色の目が、彼女を見下ろしていた。

「何しに来た」
うめくような問いとともに腕を掴む手に力がこもる。
「痛っ」
痛みに顔を歪めると、彼女にとって憎むべき相手の前の主が、やめてと彼を止め、彼女を離しなさいと叱った。

「なぜだ?この女は俺の目の前であんたに手をあげた。殺されたって文句はないはずだ」
「大、倶利伽羅っ……」
「黙っていろ。言い訳なんて聞かない」
大倶利伽羅、と前の主の悲痛な声がして、そうして彼は大きく舌打ちして彼女を離した。
掴まれていた腕をさすりながら彼女が見たのは、前の主の赤く腫れた頬を心配そうに気遣う大倶利伽羅の姿だった。

「大倶利伽羅……」
やめて。目の前でそんな姿を見せないで。
悲痛な願いは、だが声にならない。
彼に素っ気ない態度を取られても、あのような振る舞いはされたことがなかったせいもあるだろう。
いつだったか鶴丸国永が、大倶利伽羅を指して優しい男だと言っていたことがあった。

彼女が呆然とそれを見ていることに気づいて、彼は前の主を庇うように抱きしめて、彼女を冷ややかな眼差しで見た。
「なんだ、まだいたのか」
「ねえ、おねがい、話を……」
「主、戻るぞ」
そう言って彼は前の主の肩を抱いて歩きだそうとする。

「待って!」
彼女はとっさに彼の服に手を伸ばす。
背を向けられたことや乱暴に扱われたことよりも、目の前で別の相手を主と呼んだことのほうがショックだった。
だが触れた瞬間、その手は強く振り払われてしまう。

「触るな」
「大倶利伽羅……お願い、帰ってきて!」
「黙れ」
「大倶利伽羅!」

静かな声で、大倶利伽羅、と前の主が彼を呼んだ。
迎えが来たんだから帰らなきゃダメだよ、と前の主は自分の肩に回っていた手を外そうとする。
だが大倶利伽羅はその手をつかんで前の主を強く抱きしめた。
「嫌だ。向こうにあんたはもういないのに、帰る意味なんて俺にはない」

でも新しい主さんにはあなたが必要だよ、と諭す前の主の声がかすかに彼女の耳に届いた。
こうして迎えに来たんだから、と。だが彼は無言で首を横に振る。
そうして忌々しそうな表情を隠しもせず、彼女に視線を向けた。

「あんただって審神者なんだ。刀剣男士はいくらでも顕現させられるだろ。それこそ、別の俺だろうとな」
「ッ、私は、あなたに戻ってきてほしいの!」
前の主に助け舟を出された形なのは不本意だが、それでも利用しない選択はできなかった。
いまの彼は前の主の言葉なら素直に聞くようであるから、説得できるのならこの屈辱も甘んじて受ける覚悟も決めなければならない。
そうでなければなんのために死ぬかもしれないと言われてここまで来たのか。

彼はしばし黙っていたが、ふと息を吐き出した。
いくらか表情を和らげたことに彼女は希望を見出したが、それは錯覚であった。

「戻ったところで、俺にとっての主はあんたじゃない。俺は俺自身とこいつのために戦う。それでも戻れと言うのか?」
「それ、は……」

うなずくべきだ。そう頭の隅ではわかっているのに、妥協の出来ない性格が災いして、彼女にためらわせてしまった。
戻ってきても結局彼の心に自分が入る隙間が無いと突きつけられる未来への恐怖の所為だろう。

ためらっている彼女に大倶利伽羅は息を吐き、答えは出ているなと冷たく言い放つ。
「俺にこれ以上話すことなんてない。さっさと消えてくれ」
「で、でもこの人だって……前の主さんだってあなたに戻れとさっき言ってくれたじゃない……」
そうでしょう、と同意を求めて彼女が前の主のほうを向くと、それは肩を揺らし、そして彼を見てその名を呼ぶ。
説得するためだとしても、前の主が彼の腕に触れることを彼女が忌々しい思いで見つめていると、鋭い舌打ちの音が響いた。
「自分がしたことをもう忘れたのか。主はずっと俺のために言っていただけだ。あんたが都合よく利用するためじゃない」
「大倶利伽羅……っ、ねえ、お願いだからいつまでも彼を苦しませないで!あなたへの未練で彼はずっと苦しんでいたの!あなたも彼が好きなら苦しませて平然となんてしてられないはずよ!」
それくらいわかるでしょう、と敵同然に認識していた前の主に対して懇願するなど本来の彼女の性格が許さない行為だが、もはや形振りかまっていられなかった。悲しみと悔しさと怒りで涙がとめどなく溢れる。
さらに言い募ろうとした彼女の眼前に、突如刃が突きつけられた。

喉奥から短い悲鳴が飛び出し、後ずさりもできずに彼女は固まるしかなかった。
視界の端に、前の主が大倶利伽羅に刀を下ろすよう懇願する姿が映る。
彼は前の主を抱き寄せた手で髪を撫でてやりながら、まだ斬りはしないと穏やかな声でささやき、それとは打って変わって熱のない目で彼女を見やり、ため息をつく。
そうして刀を下ろすと、前の主の肩を抱いて彼女の前から遠ざかっていった。

もはや彼には、彼女に向ける言葉すらないようだった。


「そろそろ戻った方がよいでしょう。このままでは死んでしまいますよ」

彼が去っていくのを呆然と見送った彼女のそばに、様子をうかがっていた老こんのすけは近づいた。
そうしてちょこんと足をそろえてかたわらに座る。
帰りますかと尋ねたが、彼女は力なく首を振って川べりに腰を下ろして膝を抱え込んだ。
まだ帰れない、とつぶやいたきりそのままじっとゆるやかに流れる川に視線を向けていたが、やがて肩を震わせて嗚咽をもらし始めた。
案内するとこちらから言った以上、彼女を無事に戻さなければならないが、だとしても少々面倒だなとこんのすけは思いながら彼女が落ち着くまで待っていた。

だがそろそろ限界だと考え、ふたたび声をかけた。
いまは幽体であっても、この場所に長居するのは彼女自身のためにもならないし、こんのすけとしても困るので帰ることを促したのだが、彼女はしゃくりあげつつ首を横に振った。

「彼を連れて一緒に帰るって言ったのに、このままじゃ帰れない」
「彼は主さまを傷つけられて激高しています。つぎに姿を見せれば間違いなくあなたを斬り捨てますよ」
「……わかってるわよ。ちゃんとあの人にも謝る。だからお願い、彼に話を聞くよう説得して!」
「彼はわたしの言うことなど聞きませんよ。主さまが説得するならいざ知らず」
「じゃああの人と話をさせて!」

前の主は大倶利伽羅に帰るよう言っていたのだから自分と一緒に彼を説得してくれるかもしれないし、腹立たしいが前の主の言葉なら彼も耳を貸してくれるかもしれない。
そう話す彼女に、こんのすけはある種の感心を覚えた。

「あなたさまは真面目なのですね。いまのわたしの主さまとは全然違う。優秀な審神者を主として迎えて、さぞいまの本丸の刀剣男士たちも誇らしく思っていることでしょう」
「なによそれ、バカにしているの……!?」
彼女が見せる怒りの気配に、だが老こんのすけはまさか、と頭を左右に振った。

「本心から思っているんですよ。それに賢明なあなたならわかっているのでは?一つのことにこだわって他を見失っては、いずれすべて失ってしまいますよ。ここらがよい機会ではありませんか」
こんのすけがそう言うと、何か引っかかる言葉があったのか、彼女はどこか忌々しそうな様子で眉を寄せた。

彼女の脳裏をよぎっていたのは、加州清光の言葉だった。

『主の気持ちはわかるけどさ、欲張るとどっちも失うよ』

いま思えば、あの時の声はひどく憐れんでいたようにも思い、彼女は唇をかみしめた。
頭の隅では帰るべきだと冷静な声がしているが、けれど心はあきらめたくないと足掻いている。
「おねがい……前の主さんにいきなり叩いちゃったこと、謝りたいの」
「保証は出来ません。それに主さまはともかく、彼にとってはあなたの言葉も行動もすでに無意味なものになっていますよ。あなたの話を聞いたところで心は変わらないでしょう」

老こんのすけにとっては最後の忠告だったが、肝心の彼女はそんなはずないと首を振る。
彼女の知る大倶利伽羅はいつだって一人静かにそこにあって事を荒立てず、戦の場で刀を振るう戦士だ。
何かを必死に求めたり、追いかけたりなどしない。あんなのは自分の知る大倶利伽羅ではない、と彼女は必死で否定する。
「いまは恋人だった相手に会えて、周りが見えてないだけよ……冷静になれば、彼だって考え直してくれる……そうだ、もっとたくさん戦いに出すって言えば彼だって戻ってくる気になるかもしれない」
そう言って老こんのすけのほうを向いた彼女の声は途切れ、表情が固まった。

灰色がかった老いた管狐の目が、憐れんだ様子で彼女を見ていた。
いつも見るこんのすけの目に感情はうかがえなかったし、この年老いたこんのすけの目にもいままでは感じられなかったのに、どうしてかこの瞬間、彼女は自分は憐れに思われていると認識した。屈辱に彼女の顔が歪む。
「なによ、その顔……私が憐れだって言いたいの?」
「いいえまさか。どう動くのかはあなたの自由です。良いようにすればよろしい。ですがいずれにしても一度帰った方がよいかと」

死んでは何の意味もありませんよ。

その一言がやけに彼女の胸に響いた。ハッと目を瞠って、そうして奥底から力がみなぎってくるのを彼女は感じて、いきおいよく立ち上がった。
「……わかった。帰るわ」

そう。死んでは意味がない。この年老いたこんのすけは正直言って気に食わないが、彼女にとってのアドバンテージを示してくれた。
前の主はもはや彼女と同じ土俵には立てない。死んでいるのだからこの先の未来はなく、記憶と共に過去の存在になっていくだけ。
けれど自分は生きている。彼もまだ死んだ状態ではない。
ならば彼と自分にこそ未来がある、と彼女は自らを奮い立たせた。

彼女は何事もあきらめないでこれまで突き進む人生を送ってきた。あきらめなかったからこそ活路を開くこともできていた。
今度だってそうだ。怯んで、打ちのめされたりもしたが、あきらめてしまえばそこから先には進めない。
もはや立ち止まることなどできなかった。

自身を奮い立たせた審神者が、本丸に帰りましょうと歩き出す。
その背を見やって、老こんのすけは感心とも呆れともつかない息を吐いた。

彼女はいまの自分の主とは違う。
あのあきらめの悪さは、きっとどんな窮地に陥ったとしても彼女を救う強さになるだろう。

けれど、とこんのすけは屋敷の方を振り返る。

「……彼はそこに価値など見出してはいないんでしょうね」

おそらく大倶利伽羅にとって審神者の性格など、どうでもいいもののはずだ。
そこに重きを置いていたなら、彼は仲間の待つ本丸に戻る選択をしただろう。

同じ土俵どころか、そもそも存在すらしないことに彼女が気づく日は来るのだろうか。

「どうせならリン殿と少し話でもしてゆっくりしましょうか」
せっかくの二人だけの時間を邪魔するなど野暮なこと、このこんのすけ、老いてもしませんとも。

誰にも聞かれない独り言をつぶやいて、老こんのすけは彼女のあとをゆっくりと追った。


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