戻る
亡失の呪い-if 18-

深く、深く沈んでいく感覚に大倶利伽羅は目を開いた。
目の前に広がっていたのは、以前に鶴丸国永に巻き込まれて観るはめになった映画のいち場面を思い起こさせる水中の光景だ。

深海へと沈んでいく視点の映像は、物悲しく、どこか恐ろしげでもあった。

どうして自分はこんな光景を眺めているのか。
不可解な現象に抵抗するため身じろぎしようとしたが、ろくに動けなかった。

次に目覚めたとき、状況はまた異なっていた。
本丸の屋敷と似ているようで違う室内の、それも布団に横たわっていた。

こちらへと近づいてくる足音が聞こえて布団をはねのける。布団のかたわらには自身の刀があった。
それを手にして警戒する大倶利伽羅の前に現れたのは、ひどく見覚えのある姿だった。

「なんで……」

あんたがここに、という言葉は動揺のあまり音にならない。
けれど目の前のそれは彼を安心させるつもりなのか、ほほ笑んでみせた。
そうして彼の名を呼んだ。大倶利伽羅、と。

「……あ、るじ」

刀の付喪神の自分たちの思いを励起させ、戦士である刀剣男士として人の形に顕現させた存在。
審神者、主として彼らを束ねて率い、歴史を守るための戦いに彼らを送り出していた人。
そして、そばにいてほしいと手を伸ばされたことをきっかけに、審神者と刀剣男士、刀と主という関係を超えることになった相手。

──もっとも彼が会いたかった姿が、今目の前にある。

気がつけば手を伸ばし、目の前の体を抱きしめていた。
触れられなかった可能性もあったことに気づいたのは、主の手が彼の背中に回ったあとだ。

ある日目覚めて、恋仲でもあった主は死んだと聞かされた。
主が身につけていた証を肌身離さず持って、それでも新しい主を迎えて受け入れたのだと他から聞かされた。
けれど記憶の一部を失った彼にとって、それは認識が難しい話であった。
この目で見ていないのに、記憶に存在しないのに、どうしてそんなことを認められるというのだろう。

それでも彼はなんとか自分を納得させた。認めなければ先へは進めない。
主の墓参りを区切りにして、新たないくさの場に臨めばいいと言い聞かせた。
立ち止まることをきっと主は望まないだろうし、何より刀である自分には持ち主が必要だと感じていたからで、新しい主となった審神者のためなどではなかった。

刀剣男士として戦場で刀を振るい、血を流し、そして命を散らせるのならばなんでもよかった。
なのに新しい主だという審神者は演練で重傷を負って記憶喪失となった件以来、彼を戦場へと出そうとしない。
戦いを望む彼の心を軽んじるくせに、自分の望みだけは押し付けてくる。
うんざりするなというほうが無理な話だ。

主だったのなら、と彼は度々思い返す。ささいなことで互いの気持ちがすれ違っていた時でさえ、主は彼をいくさに誰よりもつれて行くという約束だけは守ってくれていた。

主の最期の記憶を失っていたこともあって、大倶利伽羅は段々と新しい主の存在を疎ましく思うようになっていた。同時に、前の主、と他の男士が気持ちを切り替えていることを信じられない気持ちで見るようにもなっていた。

約束は守られて戦いに出るようにはなったが、彼自身の無意識が必要以上に血を流させることをためらわせた。
主が生きていたころなら、そんなことを気にせずに刀を振るうことが出来ていたのに、慎重に動くようになってしまっていた。

傷だらけの自分を見て主が一瞬だけ浮かべる強張った表情には気づかないふりをしていた。
表情を取り繕って、手入をしようと、主が真っ先に自分に手を伸ばしてくれるほうが彼にとっては大事で、痛みも何もかもどうでもよかった。 けれどもうその手を伸ばしてくれる主はいない。そして戦場で命を散らせたくても、新しい主とやらが彼が折れないようにとささいな傷で帰還命令を出す。 何を拠り所にしていくさの場に立てばいいのか、わからなくなってしまっていた。

主との記憶だけが、日々を過ごす中での支えになっていた。
だがその記憶も薄れていく。そうなってしまうことは仕方のないことだと頭ではわかっているのに、これ以上失いたくないとあがいた。
そんななかで、彼にとってはわずらわしい言葉を、新しい審神者から投げつけられた。

──貴方が好き。
死に別れた辛さを忘れて、前に進んでほしい。いつまでも前の主に囚われていないで。

何を言っているのだろうと、とっさに理解が及ばなかった。

死に別れた辛さすら、いまの記憶には存在しないのにどうやって忘れろというのだろう。
前に進む?そうさせてくれないのは、目の前の主だと名乗る女のせいではないか。

そもそも、と彼は歯噛みした。いつまでも囚われていることのいったい何が悪い?
もうどこにもいない、自分のそばにもいない、主の声も聞こえない、名前を呼ばれないつらさが、傲慢にもわかるなどと頼むから言ってくれるなと願ってしまうほどに、それは彼を苛立たせた。

そんな思いを抱え、あんたには関係ない、という一言で切って捨てた彼に審神者はさらに言った。

『──だってもう死んでいるのに、いつまでも想っていたって仕方ないじゃない!』

吐きだした直後、思わずと言った様子で顔を青ざめさせて取り繕っていたが、大倶利伽羅にとっては失言をしたと気にして動揺するそれなどもはやどうでもよかった。

彼がその審神者を新しい主として認めたくない、否、認めないという気持ちを抱いたのはその時だ。
目の前のこれは、自分を顕現させた主ではない。
所詮は本丸を引き継いだだけの替えのきく存在でしかないのだ、と。

彼が強く求める主は結局死ぬまで自分の代わりなどいくらでもいると思っていた節があったが、この時ほどそうではないと強く否定したいと思ったことはなかった。 らしくもなく、叫びたかった。

俺に必要なのはあんただけなんだ、と。

そうして彼は心を閉ざした。

「目が覚めましたか」
声に抱きしめる力を緩めながら視線を向ける。普段知るこんのすけよりも薄い毛色の、どことなく年齢を感じさせる管狐が座っていた。心なしかよく見る姿よりも一回り程小さいだろうか。

主が、こんのすけ、と呼んで手を差し出す。
やや小さいこんのすけはゆったりとした歩みで主の元に近づき、撫でられるのに任せた。
ひとしきり撫でられた後、こんのすけは大倶利伽羅のほうを見た。

「大倶利伽羅殿。目覚めの気分はいかがですか。どこか痛いところなどは……」
目覚めた時から左腕に痛みを感じはじめた以外にないと首を振り、それよりも、と問い返す。
「ここはいったいなんだ。それにどうして……」
主がいるんだ、と言葉の代わりに抱きかかえる腕に力をいれた。

「ここは彼岸と此岸の間。こちらの主さまは、亡くなった後に輪廻に入るよりもここで彷徨う魂を導く務めを引き受けてくださったのです」
彼はにわかには理解できずに主を見やる。 主はその視線に困ったようにはにかみ、未練があったから、と答えた。
未練で成仏できそうになかった、と。
「皆様方刀剣男士が歴史を守る戦いをつづけるなかで、どうしたって歴史のはざまで多くの魂が彷徨ってしまうことになるのです。主さまはここでそういった魂を迎え入れ、傷ついているのなら癒し、輪廻の中に導いてやる役目を果たしているのです。たとえ自分が次の生に入れなくなったとしても」
「……!」
どうしてそんなことを、と彼は主の頬に触れ、目を合わせる。
主は彼の手の上に自分の手を重ね、甲をなだめるように撫でながら、審神者として中途半端なまま死んでしまったからせめて何か役に立ちたかったのだと答えた。

死んだあと、審神者は刀剣男士たちに別れを告げられなかった未練を抱えて本丸をさまよった。
未練が解消されたことでさまよっているうちは出ることがかなわなかった本丸から抜け出ることが出来て、きちんと彼岸へ渡ろうとしたところでこの年老いたこんのすけが声をかけてきて、提案をしてきた。
話を聞いて、見ないようにしてたもう一つの未練を見出していた。
審神者として、歴史を守る戦いにもっと携わっていたかったという未練を。

「この役目は政府の指示でもあります。さきほど彼岸と此岸の間と言いましたが、ここは本丸と似たような領域で、現世と幽世の狭間に存在します。主さまは肉体を捨てた状態でこの場所の主となりました」
「……なぜ俺はそんな場所にいるんだ」
「あなたが深い眠りに入ったからです」
「眠り?」
「おそらく本丸の方ではあなたの顕現が解けた状態となっているでしょう。時に刀剣男士の魂が傷つくと、その防衛本能の一種として顕現が解けてしまうことがあります」
だからこそ霊力で構成された肉身は消えて刀が残り、魂はここに流れ着いたのだ、とこんのすけ。
「あなたの主さまを求める心が、ここへと流れ着かせたのでしょう」
本来深い眠りに入った刀剣男士の魂はここへ来るはずがないのだとも年老いたこんのすけは言った。

魂が傷つく、というのは彼の実感には存在しないが、目覚めた時から痛む左腕がそれの証なのだろう。
戦で負う痛みと似ているそれはだんだんと強いものになってきていた。

「主さまのいるここでしばらく魂を休め、傷を癒してください。傷が癒えれば、きっとあなたは元の場所に戻ることが出来るでしょう。新しい主さまは、あなたの刀を刀解処分にはしませんでしたので」


この場所にさまよい流れ着く魂は、うすぼんやりとしていて弱々しい。
姿さえはっきりしない者も時に現れるが、主は声をかけ、世話をし、傷を癒して彼岸へと送る。
その姿を眺めて、大倶利伽羅はゆっくりと息を吐きだした。

「だいぶ治ってきましたが、そこだけはなかなか治りませんね。その左腕の傷だけは」
声をかけてきたのはこんのすけだ。大倶利伽羅は自分の左腕に目をやる。
前腕を覆うように巻かれた包帯。傷が開いたのか、赤くにじんでいる。
魂でありながらこの体は血を吹き出す。こんのすけいわく、ここでは魂の傷が目に見えるようになっているためだという。

こんのすけからこの場所の説明をされたあと、彼は左腕だけでなく体中に傷がついていることを自身で認識し、そうして激しい痛みを感じた。
本丸と違ってここに手入部屋は存在しない。
あるのは主の魂が持つ力だけで、主は彼を癒そうとしたが、こんのすけが待ったをかけた。
これほどの傷を一度に治そうとすれば、主さまの魂すら削ることになる、と。
そうなればいずれ消滅してしまうとも言った。

それを聞いた彼は、治さなくていい、必要ないと首を振った。
ようやく会えたのに、消えてしまうなど許せるはずもない。
あんたの魂が消えるくらいならこんな傷なんて治さなくていいと、彼には珍しく激しく拒絶した。
けれど主は、ちゃんと傷を治して本丸に戻らなければダメだと涙すら浮かべて彼を叱った。

戻りたくなんてない。ずっとここに、主のそばにいたい。

そんな懇願はかろうじて口から飛び出さなかったが、気持ちは同じだった。
睨み合う二人をなだめたのはこんのすけだ。 いわく、ここでは遅くとも傷は自然と治っていくのだから焦ることはないのだ、と。
さらには、どうやらこんのすけは主と大倶利伽羅との仲を理解していたらしく、すぐに離れてしまっては寂しいでしょうと主を諭していた。
主は顔を赤くしてすぐには納得しなかったが、大倶利伽羅が頑なになっているのを見て渋々うなずいた。

そうして彼はゆっくりと時間をかけて傷を癒すことになった。
癒えていくまでの痛みは、主と共にあれば和らぐのでさほど問題にはならない。
主は時折、さまよう魂をこの屋敷に連れてくる。
彼らはおだやかで何もないこの場所で過ごして傷を癒し、そうして彼岸へと渡っていく。

大倶利伽羅、と主が彼を呼ぶ。彼は立ち上がって、主のそばに寄るとその体を抱きしめた。
それだけで腕の痛みが少しだけ和らぐ。
散歩に行こうと誘う主にうなずいて、彼は差し出される手を握った。

彼岸と此岸を表すように、屋敷のそばには川が流れている。
その川べりを二人で手をつないで歩きながら、主は魂が流れ着いていないかとあたりを見回す。
彼はそのたびに主の目を手で覆って塞いでしまいたくなる。

何も見ないでほしい。もう他の誰も癒さなくていい。
ただ自分のそばにいて、名前を呼んでくれていればそれだけで十分だ。

だがそれを口にはできなかった。口にしてしまえばきっと主は、早く戻れと、ここにずっといてはダメだと彼を叱るだろう。主に拒まれることを、そんなふうに言葉にされることが想像できてしまうので彼はかろうじて吐きだしそうになる言葉を飲み込む。
主の声が彼の望まない言葉を吐くことも、それを聞くこともきっと耐えがたい苦痛に違いない。

大倶利伽羅は足を止め、主の体を抱き寄せた。
戸惑う主の声が彼を呼び、どうしたのとなだめるように背中を撫でる。
「腕が痛い」
ハッとして身じろいで、主が癒す手を伸ばそうとするのを彼は避け、そうして主の手を引くと屋敷へ取って返す。
大倶利伽羅、と呼ぶ声に足を止めそうになる心を振り切った。

この現世と幽世の狭間の場所は、本丸のある領域と同様にゆっくりとした時間が流れている。
夜、主が眠ったのを確かめて彼は布団を抜け出た。
そうして左腕に巻かれた包帯を外し、それを丸めて口に咥えると治りかけの傷を爪でゆっくりと抉っていく。指先をめり込ませてさらに深く抉る。
激しい痛みにうめきながら咥えた包帯をかみしめた。

この場所で目覚めた時から、刻まれた彼たる証の倶利伽羅竜にはどこよりも深い傷がついていたが、いまや美しくも雄々しい形はすっかり歪んで、ひどい傷跡が残ってしまっていた。
治りきらないうちに新しく傷を作れば当然の結果だが、彼はそれでも構わなかった。

この左腕は永遠に治らなくていい。
彼の名でもあるこの竜が傷ついているうちは、この魂がここを離れることはないのだ。

戻りたくなんてない。ずっとここに、主のそばにいたい。

痛みに身を折りながら、彼はたった一つのことを願った。


戻る