「……じ、あるじ、主!」
声にハッとして視線を向けると、燭台切光忠が心配そうに彼女をうかがっていた。
「大丈夫かい?さっきからぼうっとしてるけれど」
「だ、大丈夫。昨日ちょっとはしゃぎすぎちゃったのかも」
「友人たちはみんな元気だったんだろう?君が楽しく過ごせたようでよかった」
「そう、ね……」
果たして昨日のことは全体として楽しかったと言えるのだろうか、と彼女は眉を寄せる。
友人たちとの再会は嬉しかったし、下着を選ぶ時も楽しんだ。思い出話にも花は咲いたが、それでも引き継いだだけの自分と一から始めた友人たちとでは溝を感じて沈んでしまったのは確かで。
それに追い打ちをかけたのは、あの大倶利伽羅の写真と、彼の言葉だ。
お店を出た後、どう帰ってきたのかはっきり覚えていない。交わしたはずの友人たちとの別れの挨拶も何も覚えていない。
ただいまここにいるということは何もなく、惰性で帰ってきたのかもしれない。ならば記憶に残っていないのも無理はない。
それにもし何かあれば、ここで燭台切はもう少し別の反応をしただろう。
「……ところで燭台切。一つ訊いていい?」
「なにかな。僕に答えられることであれば」
首をかしげて優しげに金色の目を細める。
鶴丸国永、大倶利伽羅とも違う色合いの金色の目は、これから尋ねる内容も相まって彼女の胸をざわつかせた。
「……大倶利伽羅と、前の主さんは恋仲だった、んでしょう?」
しばし執務室には沈黙が流れた。彼女は膝の上で握ったこぶしに視線を落とし、燭台切の反応を待つ。
「それ、誰かに聞いたのかい」
ようやく返ってきた燭台切の声には動揺はなかった。どちらかというと冷静で、それは大倶利伽羅が記憶喪失であると彼女に告げた時と似た響きを持っていた。
おそるおそる顔を上げると、燭台切の顔からは表情が抜け落ちていた。思わず息を詰める。
「燭台切……」
「いったい誰が君に言ったのかな?」
燭台切の雰囲気は、安易に手を伸ばせば簡単に斬れてしまいそうに鋭い。へたなことは言えない、と彼女は背筋を伸ばす。
「誰にも。ただ、私がそうなんじゃないかって思っただけなの」
彼女が告げると、燭台切は息を吐いて、ならいいけれどと先ほどまでの様子とは打って変わって、優しげな笑みを浮かべる。
「もしかして聞いてはいけないことだった?」
「そういうわけではないよ。でも口にはしないようにしていたことではあるね」
燭台切の表情に先ほどのような恐ろしさはないが、言外にこれ以上は何も聞くなという意思は感じられた。
それに気づかないふりをしてさらに手を伸ばしてみたい衝動に駆られつつも、彼女はうなずいて、納得したように見せた。
「変なこと訊いてごめんなさい」
「僕こそごめんね。でも伽羅ちゃんのためでもあるから」
気分転換に少し歩いてくると伝えれば、近侍を務めるへし切長谷部が、俺もお供します、と立ち上がる。
「ちょっとそこらへん歩くだけだから気にしないでいいのに」
「俺も少し気分転換がしたいだけですので、どうかお気になさらず」
部屋に詰めていると余計なことを考えがちですからね、と長谷部は理解を示す。
沈みがちになっていた自分を気遣ってくれているのだろうと、審神者はありがとうとほほ笑んだ。
庭をゆっくりと歩いて、朱色の橋に差し掛かった時、ほとんど無意識に彼女の足が止まった。
あの後、例の情報誌の電子版を端末で読み、自分の目で確認していた。この橋の上で戦装束の大倶利伽羅が白無垢の花嫁と和傘の下に立っている構図の写真を撮っていたことを思い出し、目の前にそれが幻影として再現されてしまって思わず目を強く閉じた。
「主?」
急に足を止めた彼女を不審に思った長谷部の心配そうな声が背後からしたが、彼女はなんでもないと首を振るので精いっぱいで振り向けなかった。自分の顔がひどくこわばっている自覚があった。
「いまのところ記憶が戻る気配もなし。それどころか重傷になったりもしない」
「前みたいに戻るかどうかもわからないし、下手したらさらに記憶を失うかもって思ったらさすがにあいつだって無理はしないだろ」
蜂須賀虎徹、大倶利伽羅と入れ違いに手入部屋に入った加州清光と大和守安定の会話である。
友人たちと再会したあの日以来、今の主は大倶利伽羅を戦場に出すようになった。
そのことに加州は安堵した。おそらく約束を破れば、大倶利伽羅は今の主に心を閉ざすだろうと考えていたからでもあったし、そうなれば面倒な事態が起きるのではないかと危惧していたからでもあった。
大倶利伽羅のほうでも無意識の恐れがあるようで、以前と比べると戦い方に慎重さが表れている。
前の主が生きていたころは一人突っ込んで無茶をしてかなり派手に傷を負って帰還することもしばしばで、主は彼に対しては何も言わなかったが、いつだったか加州に、時々怖くなるとこぼしたことがあった。
大倶利伽羅には言わないでと口止めされていたので、今日まで口にすることはなく、主亡き今は口にしたところでどうしようもないものとなってしまったことに皮肉なものを感じながら、手入部屋に備え付けの台に寝そべって天井を見上げる。
「失くした記憶がさ、主が呪いにかかったって知ってる状況で留まったから何とか精神持ってるみたいなところあるよな、いまの大倶利伽羅って」
大和守も同じく寝そべって傷が癒えていくのを感じながら天井を見上げ、たしかにそうかもしれないと頷く。
「呪いにかかったことさえ知らない状態だったら、もっと悲惨になっただろうね」
ニャア、と聞こえた鳴き声に大倶利伽羅が視線を向ければ、よく姿を見せる猫が足元にすり寄っていた。
彼がこの場所にいると、主を誘導するような形で一緒に現れる猫で、いつだったかそのことを知った乱藤四郎が、きっとあるじさんたちに仲良くしてほしいのかも、と冗談めいた口調で笑って撫でていたことがあった。
その場に居合わせた太鼓鐘貞宗が、猫に気遣われているのはどうなのかとあきれ顔で突っ込んでいた余計な記憶も思い出しながら、大倶利伽羅は木の根元に腰を下ろしてその猫に手を伸ばした。
猫を撫でていると、ふと吹いた風が彼の髪を揺らす。
葉がこすれる音に視線を上げると、青々と色づいた桜の葉が揺れていた。
もう夏になってしまったのかと思いながら、握りしめていた金属片に視線を落とす。
主が呪いにかかったのは冬から春に変わろうという頃であったことを思うと、月日が経つのはあっという間だ。
ふいに脳裏に浮かんだのは、現世で主と眺めた花火や庭の朱色の橋と紅葉の景色で、そこから連鎖的に主との記憶が溢れてきて大倶利伽羅はとっさに目を閉じた。
主との記憶を思い出す度に、これもいずれ時間の経過で忘れてしまうのかと考えると苦しさを覚える。
足音が聞こえて目を開けると、そこには今の主だという審神者が立っていた。
「大倶利伽羅……」
ふいと顔を背けて大倶利伽羅は立ち上がると無言で去ろうとしたが、待って、と呼び止められると共に腕をつかまれた。即座にそれを振り払う。
「触るな」
「ごめんなさい、いきなり……でも、あの、話があって」
「ならさっさと話せよ。あんたのために時間を割きたくない」
審神者はぐっと唇を引き結んで、傷ついた表情とためらいを見せた。
大倶利伽羅は小さく舌打ちをする。
「話すつもりが無いなら呼び止めるな」
そう言って背を向けたが、その背中に不愉快な言葉を投げつけられて足が思わず止まっていた。
「大倶利伽羅、私──あなたが好きなの!」
肩越しに睨む視線の鋭さに彼女は息を呑んで、思わず後ずさりしそうになった弱気な心を叱咤すると足を踏みだした。手を伸ばせば触れそうな距離で、唇を引き結んで彼をまっすぐ見る。
「あなたが、前の主さんと恋仲だったこともその人を忘れられないのもわかってる……だけどあなたに苦しんでほしくない!死に別れた辛さを忘れて、前に進んでほしいの。前の主さんにいつまでも囚われてないで……!」
お願い、という懇願の声は消え入りそうなほど弱々しかった。
あたりに沈黙が漂う。
彼はしばらく黙り込んでいたが、ゆっくりと息を吐きだし、そして彼女に背を向けた。
「あんたには関係ないことだ。二度と口に出すな」
不愉快だ、と切り捨てて歩き出す背中に、彼女は思わず言葉をぶつけていた。
「だってもう死んでいるのに、いつまでも想っていたって仕方ないじゃない!」
吐きだした直後、彼女はハッとして両手で口を抑えた。顔が強張る。
なんてことを言ってしまったのかと思いながら彼を見れば、足を止めて顔をうつむけていた。
「ご、ごめんなさい、私……思ってもないことを、言ってしまって……!」
思わず彼に手を伸ばしたが、それが触れるより先に彼は彼女の前から去っていった。
その日の朝、目覚めた燭台切光忠は支度を終えて何気なくだが衝立の向こうを見て、驚愕に目を瞠った。
同室者が寝ているはずの布団は空っぽで、代わりに一振りの刀が置かれていたのだ。
その刀はよく見ずとも大倶利伽羅の刀であったが、燭台切は、彼が自身が振るう武器をこんなふうに雑に扱うだろうかとふと疑問に思った。
安置するにしてもきちんと刀掛台は部屋にあるのだからそこに置けばいいのにそうせず、そして彼自身は姿が見えない。
胸のあたりが嫌な予感でざわつくのを感じながらそっと布団に近づいて、燭台切は恐る恐る刀に触れた。
そうしてよく見れば、鍔の近くに見覚えのある認識票が括り付けられていることに気づく。
煙水晶の飾りと共にあるそれは、恋仲であった前の主が死んだあと、形見として大倶利伽羅が肌身離さず持っていたものだ。
それが刀に括り付けられている、ということはまさかこの刀は彼自身──顕現が解けてしまったとでもいうのだろうか。
審神者と刀剣男士、両者の同意の元ならば顕現を解くことは可能だと以前聞いたことがある。
審神者が単身で現世に赴く際に、護身用として特に短刀がその役目を担うことが多いとも。
けれど昨夜眠る前までの彼にそんな様子はないし、ましてや今の自分たちの主がそんなことをする必要がないと考えれば、何かしらの異変が起きていると考えるのが普通だ。
「……伽羅、ちゃん?」
この刀がそうであると仮定して声をかけてみたが、当然返事はない。
単純に考えて、何か理由があって普段自分が持つ刀にこれを括り付けているだけかもしれないと思いながらも、そうした刀をこのように置いておく理由が思い当たらない。
刀だけならここまで考える必要はなかった。だがこの認識票を今の彼が手放すはずはないと考えれば、目の前の物言わぬ刀が彼自身なのはほぼ決定事項なのではないかという気がしてしまうのだ。
本人の姿がないのもその考えに拍車をかける。
「頼むから無事でいてくれ、伽羅ちゃん」
何にしても、主である審神者に知らせてまずは彼を捜さねば。燭台切は刀を抱えて部屋を出た。
この刀が顕現が解けてしまった大倶利伽羅とまだ完全に決まったわけではないのだ。
「光坊、朝っぱらから刀なんて抱えてどうした……」
声をかけた鶴丸国永は、燭台切の手にある刀が彼の物ではないことに気づいて目を瞠った。
「鶴さん、伽羅ちゃんがどこにいるか知らないかな?部屋にいなかったんだ」
尋ねる燭台切の声は少し震えている。
見てはいないと首を振りつつ、鶴丸はその刀に括り付けられたものを見て眉をひそめた。
「おい、光坊……」
「待って。わかってる。鶴さんの言いたいことはわかってるんだ。だけどまだそうと決まったわけじゃないよ」
「けどあいつがそれを手元から離すとでも?いや、百歩譲って刀に括り付けていても、だ。そんな大事なものを置いて、どこかに消えるなんてありえないだろう」
「だけど!」
「とにかく主のところに行こう。もしその刀が……」
鶴丸は言いかけた言葉を飲み込んで首を振ると審神者の執務室の方へと走りだし、燭台切もあとを追った。