彼女が医務室に足を踏み入れると、うめき声がした。
「大倶利伽羅……!」
駆け寄ると、どうやらうなされているようで、大倶利伽羅は苦し気に何かに手を伸ばす。
彼女はとっさにその手を握りしめていた。
「っ、あ……くな……」
「大倶利伽羅!」
「……いくな、俺を……置いていくな……」
悲痛な声に彼女は握る手に力を込める。
「置いていかない。置いていかないから!だからおねがい、目を覚まして」
彼女の願いが通じたのか、大倶利伽羅は呻きながらゆっくりと目を開けた。
「大倶利伽羅……!」
だがまだ意識がはっきりしないのか、彼の金色の目はうつろにさまよっていた。
「いくな……俺を置いて……」
握られていない方の手を何かを求めるように震わせながら伸ばす。
その伸ばされた手も彼女はつかみ、必死に彼に呼びかけた。
「ここにいるでしょう。ほら、しっかりして!」
「……そばに、いてくれ……主……__」
何かの単語をつぶやいたようだったが、彼女にははっきりとは聞き取れなかった。
それを聞き返すよりも先に大倶利伽羅は再び気を失ったようで目を閉じている。体を横たえ、彼女は握り返す力もない彼の手をしっかりと握りしめて必死に祈った。
「主、大倶利伽羅のことはほかのやつが見てるから、ご飯食べておいでよ。みんなも心配してるし」
医務室の戸口から加州清光が声をかける。
彼女は振り向いて、けれど力なく首を振った。うなされている彼を目の当たりにしたこともあって、どうしてもそばを離れたくないのだ。
加州はため息をつく。
「心配なのはわかるけどさ、大倶利伽羅が目覚める前に主が倒れたら意味ないだろ」
「わかってるけど……」
「わかってるなら行動に移す。ほら」
半ば強引に加州が彼女の手を掴んで立ち上がらせる。
心配で食事もあまり喉を通らない所為か、立ち上がると体がふらついた。とっさに加州が支える。
「だから言ったじゃん。主が倒れたらみんな大騒ぎするよ。ったく、しっかりしろよな。俺たちの主なんだから」
「……ごめんなさい」
後ろ髪を引かれる思いで、加州に手を引かれながら医務室を後にした。
大倶利伽羅が目を覚ましたと聞いて、審神者は急いで医務室に駆けつけた。
すでに伊達の刀三振りがそのそばにいて様子を尋ねている。
彼は不機嫌そうな表情を見せて言葉少ないながらも、向けられる質問に答えていた。
「よかった、大倶利伽羅……どこも痛いところはない?」
声をかけながら近づくと、燭台切光忠と鶴丸国永が彼女のために場所をあけてくれた。
そばに腰を下ろし、安堵の息を吐く。
「途中でうなされていたから心配で……大倶利伽羅?」
ふと彼の顔を見ると、警戒心をにじませた金色の目を向けられ、彼女は思わず息を詰めた。
そうして彼が口を開く。
「──誰だ」
医務室内に緊張が走る。審神者は思わず口を開いたが、喉が詰まったようになって言葉が出ない。彼女の代わりに発したのは太鼓鐘貞宗だ。
「何言ってんだよ、伽羅。俺たちの主だろ。まだ混乱してんのか?」
だが大倶利伽羅はそれこそ何を言っているのかといった様子で眉をひそめ、鶴丸を睨んだ。
「おい、これはいったい何の茶番だ?」
大倶利伽羅の追及に、いつもならば両手を上げて形だけの反省を見せる鶴丸だが、この時ばかりは真剣な表情だった。そのため大倶利伽羅は訝しむ表情を浮かべた。
「なあ伽羅坊。きみの主はさっきまでどうしていた?」
不可解な質問と思ったのは主である審神者の彼女だけで、その場に居合わせた男士はその質問に込められた意味を悟って緊張した。
尋ねられた大倶利伽羅はといえば、何をいまさらなことを訊いているのかと呆れた様子でため息をついた。
「病院から戻ったばかりだろ」
「なんで病院から戻ったんだ?」
「こんな質問になんの意味」
「いいから答えろ」
有無を言わせない鶴丸の様子に大倶利伽羅は小さく舌打ちして顔を背けつつ、音が聞こえなくなったからだ、と答えた。
鶴丸も燭台切たちも誰もが黙り込んで、しばらく医務室内は痛いほどの静寂に包まれていた。
それまで口を挟むタイミングをつかめず黙っていた審神者は、切り出していいか迷った末、口を開いた。
「……ねえ、誰か説明して。どういうことなの。大倶利伽羅は回復したはずよね?」
そう言って周りを見回す。
けれど鶴丸は腕を組んで黙り込んだままで、太鼓鐘は気まずそうな表情を浮かべ、燭台切は彼らを気づかわし気に見ていた。
大倶利伽羅だけは苛立った様子で彼女を一瞥し、燭台切を睨む。
「おい光忠、説明しろ。こいつは誰だ」
「伽羅ちゃん、彼女は」
「わ、私はあなたの主でしょう!?あなただってそう言ってくれたじゃない!」
燭台切の言葉を思わずさえぎり、とっさに大倶利伽羅の腕をつかんだ彼女を、だが彼ははげしく振り払った。
「触るな。俺はあんたなんて知らない」
「大倶利伽羅、なんで……」
「気安く呼ぶな。あんたは俺の主じゃない」
彼女を睨む大倶利伽羅の金色の目には敵意が満ちていた。
ふらふらとした足取りで、燭台切に肩を抱かれるようにして医務室を後にした彼女はようやくの思いで部屋に戻ってきた。支えを失って膝から崩れ落ちる。そうしてかたわらの燭台切を見上げた。
「なんであんな……どういうことなの……」
「伽羅ちゃんはたぶん、記憶喪失になった」
「記憶喪失……」
「うん。あの様子だと君のことを主とは認識していない。記憶が前の主が倒れる前にまで戻っているから。今の伽羅ちゃんの中での主は前の、あの子なんだ」
彼女の脳裏に一度だけ見た、はにかんで写る前の主の遺影がよぎる。
「そんなの……あ、こんのすけ!こんのすけに相談して、政府に何か手立てが無いか聞いてみなきゃ……」
慌てた様子で動こうとする彼女を、だが燭台切はそっと手をつかんで止めた。
「燭台切?」
「こんのすけには事実だけ報告して、相談するのはもう少し待ってからにしてくれないかな」
「どうして!?だって記憶喪失なんて放っておけないじゃない」
そもそもどうしてこれほど燭台切が落ち着き払っているのか、彼女にはそれも理解できなかった。 自分の刀剣男士に主と認識されないなど、どれほど衝撃が強いか。ましてや相手が大倶利伽羅となればその大きさは計り知れない。
「つらいだろうけど、しばらく伽羅ちゃんのことはそっとしておいてほしい。君がどれだけ心を砕いたとしても、たぶん彼には届かないだろうから」
燭台切の表情は悲し気なのに、彼女を諭す声は不釣り合いなほど冷静だった。
大倶利伽羅は手のひらの金属片に視線を落とし、強く握りしめた。
医務室を出た後に加州清光からこれを渡された時、彼は愕然とした。
大倶利伽羅にとってこれは主が持っているべきものだ。なのにどうして自分に渡すのか。
どういうつもりだと噛みつけば、加州をかばうように山姥切国広が前に出て彼に告げた。
──俺たちの主は死んだ。お前が目覚めた時にそばにいた女性が新たな主だ、と。
その事実を目覚めた時に現れた、主だと名乗る女から聞かされただけならば、大倶利伽羅はバカなことをと一蹴できただろう。けれどそうではなく冗談でも口にするはずのない相手から聞かされれば、嫌でもそうなのだと認めるしかなかった。
「主は音を失い、光も失って……死んだんだ」
主にもっとも信頼されていた最初の刀である山姥切国広が、冗談であってもそんなことを口にする理由なんて、この世のどこにもあるはずがないのだから。
あんたは、本当に死んだのか。
消え入りそうな声でつぶやく。彼の手の中で金属片と煙水晶が反射し合って鈍い光を放った。
大倶利伽羅の記憶にある主の最後の姿は、紙に書いた言葉を彼に向けて差し出していたときのものだ。
主が呪いに触れて声を失ったときに受けた衝撃は彼にとって大きかったが、音すら失ったときの衝撃はそんな言葉では言い表せないほどのものがあった。
多くの男士が主の元に駆けつけて一様に困惑していたのを彼は見ていたし、主が一人になったのを見計らって訪ね、声をかけたが返事がなかった。
その事実が、彼をどうしようもなく打ちのめした。
気配で気づいたらしい主が紙で尋ねてくる言葉に何も返せず、逃げるようにその場から立ち去るしかできなかった。
君は主の最期を看取ったんだよ、と燭台切光忠は彼に言った。
最期を見届けて、そうして新しい主を受け入れたんだ。そう諭されても現実感などあるはずもない。
記憶にないのだから当然で、彼の中では主がいまも生きているような気がして仕方がない。
そんな思いに突き動かされて執務室を訪ねても、けれどそこにいるのは彼にとっての主ではなく、この本丸の新しい主であるという審神者だ。
彼に気づいた審神者が文机の前から腰を浮かせながら笑みを浮かべた。
「大倶利伽羅。どうかしたの?」
──やめろ。
唐突に降ってわいた怒りに、大倶利伽羅は舌打ちして、何も言わずに踵を返した。
大倶利伽羅の足は林道のほうへと向かっていた。非番のときは林道の先の少し開けた桜の木が一本だけ生えているそこで時間を過ごすことが多い。
時折、猫にいざなわれて主がやってきて二人で過ごすこともあった。
木の根元に腰を下ろす。認識票を強く握りしめて目を閉じ、主との時間を思い出そうとした。