加州清光の視線の先、庭の池の上にかかる朱色の橋に男女が立っていた。
男のほうはこの本丸の刀剣男士である大倶利伽羅であり、女は数か月前にこの本丸にやってきた、新たな彼らの主だ。
「すっげー見覚えのある景色な気がする」
加州がつぶやいた言葉に、雑誌に視線を落としていた大和守安定が顔を上げ、視線の先を辿って、ああ、と納得したような声を出した。
「後輩ちゃんもあんなふうだったよね」
「……ああ、そっか。あの見習いの子か。すっかり忘れてた」
「あれからどうしたんだろね、後輩ちゃん。審神者になったらしいってこんのすけは言ってたけど」
「ま、正式に別の俺たちの主になったんならもう関係ないか」
橋から離れる大倶利伽羅と、それを追いかける主の姿を肘をつきながらながめやって、大和守はふとつぶやく。
「結構日が経ったけど、そう簡単に新しい関係作れるわけないよね」
加州もそちらに視線をやり、そっと目を閉じた。
四十九日が過ぎるまで、刀剣男士たちの離れの部屋への出入りは、毎朝水や果物などを供えるため程度で当番制にするなどして頻度を抑えて、自分たちなりに今の主を気遣ってきた。
主として歓迎しておいて、前の主のことばかり気にしているように見せるのも失礼だろうと判断してのことだ。
大倶利伽羅だけは、そんなことを気にした様子もなく好きな時に足を運んでいた。けれどそれを加州を含めて誰も咎めなかった。
彼はただ失った恋人を思い続けているだけで、刀剣男士としての役目を放棄しているわけでもなく、新しい主をきちんと自らの持ち主として認めていたことをみんな知っていたからだ。
二人の関係を見守ってきていた加州たちには、余計な口出しをするつもりも二人の時間を邪魔するつもりもなかった。
幽霊騒動で一時不穏な空気が本丸内に漂いはしたがそれは解決した。
けれどまさか、新しい主の視線が大倶利伽羅に向くようになるとは加州も大和守も想像はしていなかった。
「そういえば湯呑の話、清光は聞いた?」
「あー、聞いた。乱が避難させたんだろ」
「けど皮肉だよね。主が死んでから色違いの柄が出るとかさ」
「……にしてもさー、なんで大倶利伽羅ばっかりモテるんだろ。なんかムカつく」
イイ男はあいつだけじゃないのにさ、と唇を尖らせる加州に対して、大和守は肩をすくめた。
「なんだろうね。女性から見たらなんか惹かれるものがあるのかな。僕にはさっぱりわかんないけど」
「たまたま、好みが似てるってだけかもしんないけど、こうも続くとなー」
主に、見合いを申し込んできた相手に、後輩ちゃん、と加州が指折り数えていく。
大倶利伽羅ってもしかして呪われてんじゃないの、と吐きだして、そうして失言だったと机に突っ伏した。
「ごめん、忘れて」
「よしよし」
頭を撫でてやって、大和守は息を吐いた。
朝、自身の予定を確認しようと廊下の掲示板に目を留めた刀剣男士たちは、皆それぞれの顔に疑問の表情を浮かべた。
「貴様ら、通り道を塞ぐなと言っているだろうが」
「でもさ長谷部、これ見てよ」
やってくるなりしかりつけたへし切長谷部に加州清光が掲示板を示して見せると、彼は慌てた様子で主の部屋へと駆けていく。居合わせていた歌仙兼定が廊下を走るなと注意したが、声が届いているかどうかも怪しい。
「うーん、こうきたかぁ」
加州清光は腕を組んでつぶやき、そうしてため息をつくと自らも主である審神者の部屋へと向かった。
「本気なのですか、主。明日から近侍を大倶利伽羅に任せるなど……」
「冗談で決めたりなんてするはずないじゃない。ようやくちょっと仕事にも慣れてきたし、みんなのことをちゃんともっと知りたいと思って」
しばらくはへし切長谷部か、刀としての性質上、主人のそばに侍ることの多かった短刀男士たちで近侍を持ち回りにしてきたが、そろそろさらなる一歩を踏み出したいと考えて、これまで近侍に指名したことのない男士に三日ずつ任せることにしたのだと彼女は話すが、長谷部は難色を示す。
「ですがいきなり大倶利伽羅というのは……」
「まずは強敵から攻めたほうが後のハードルが下がるってもんでしょう?」
「いや、あいつ強敵どころか最難関のボス並みだよ。素人には手に負えないって」
加州の言い草に主は笑って、大丈夫だからと二人の心配を取り合わない。
二人は顔を見合わせて、長谷部は万が一を考えて主の仕事が停滞しないことを第一にこれからのことを頭の中で計算しはじめ、加州は主を見やって、そうして天井を見上げて面倒事が起きそうな予感にため息をついた。
「しかしなんだって主はそんな無謀なことを考えたんだ?」
「鶴丸さんの口から無謀って聞くと本当に無謀に思えるからこえー」
「だってそうだろう。俺は伽羅坊の顕現時はいなかったから知らんが、たしかそれと帰還時の二回しかあの子は近侍にしていないんじゃなかったか」
「そう。しかもろくに執務室に留まらせなかったっていうね」
「休憩中でもないのに執務室以外で伽羅坊を見つけた時の俺の気持ちがわかるか?さすがに俺だってちゃんとしていたってのに、あいつは何しているんだって混乱したからな!」
最後の方はほとんど自棄になった様子で鶴丸国永はそう言って、大きくため息をついて背中から床に倒れ込んだ。いてっ、と小さな悲鳴を加州は無視し、だよね、と同じくため息をつく。
あの子、とは前の主のことを指している。
前の主は大倶利伽羅と恋仲であったが、具体的にそうなったのは大倶利伽羅が修行から帰還した後だ。
けれどそれより前もそうであったように、前の主は大倶利伽羅を近侍としてそばにおこうとはしなかった。
理由は単純で、大倶利伽羅は戦い以外に興味を持たない。
畑当番や馬当番などは不満を見せつつやりはするが、およそ主である審神者と本丸の運営などに興味を抱くことはない。
近侍を命じられれば従いはするだろうが、相談相手にはまず向かない。
何しろ顕現時にこの本丸では普通なら最長でも五日は務める近侍の役目をたった二日で終わらせた男としていまだに記録を保っているくらいだ。しかも終わらせたというのが、主がやるべき仕事をさっさと片付けさせて終わらせた、という類ではないあたりが彼の彼たるゆえんだろう。
前の主はそれを承知していたから大倶利伽羅に強要はしなかった。そして彼に限らず、刀剣男士たちが基本嫌がることはなるべくさせたりしなかった。
そのことでたまにこんのすけから叱られていたが、主はいつだって、みんなには戦いに集中してほしいから余計なことに煩わされてほしくないのだと言っていた。
なので新しく顕現した男士が近侍になる期間以外はへし切長谷部か山姥切国広がそばに侍っていることがほとんどだった。
最初の刀である山姥切国広ならば主も何かと相談しやすかったであろうし、へし切長谷部ならば相談相手にもなって適切な助言もくれたであろうから、たまにこの二振り以外が近侍に指名されると、また主がきまぐれの風に吹かれたのだろう程度に思っていた。大倶利伽羅だけが、きまぐれの外にいたのだ。
「……まあ、何にしても明日にならんとな」
何も起きていないのに心配しても仕方がない、と鶴丸は体を起こし、軽く手を振りながら去っていった。
へし切長谷部が難色を示し、加州清光が忠告していたのはこういうことだったのか、と彼女は仕事を始めてすぐに思い知った。
朝、食事のために大広間に向かう途中で大倶利伽羅と出くわし、おはようと声をかけたが、返事はなかった。
少しばかり心がへこんだものの気を取り直して、今日から三日間近侍よろしくねとさらに声をかけた。
大倶利伽羅は彼女を見やって小さく舌打ちして、どうかしていると吐き捨てた。
「なんのつもりだ。何を企んでいる?俺をそばに置いたって仕方ないだろうが」
そういう役目には適任がいるだろう、と心底呆れた様子で彼女を見る。
「企んでいるなんて。ただもっとみんなのことを知りたいって思っただけ」
大倶利伽羅はしばし黙り込んで、そうしてため息をついた。
「……わかったよ。だがひとつ言っておく。俺に何も期待するな。あんたが俺に何を期待しているかなんて知らないしどうでもいいが、思っていたのと違うと言われても俺にはどうしようもできない」
それでもいいのか、という彼に審神者は二度三度とうなずいた。
「も、もちろん。よろしくね!」
戸惑いをにじませつつもなんとか笑顔でうなずくと、大倶利伽羅はもう一度ため息をついて大広間へと歩いて行った。
脳裏に心配そうにしていた長谷部と加州の顔がよぎっていたが、彼女はそれを頭を振って振り払った。
彼の対応がそっけないことなどわかっていたではないか、と自分に言い聞かせて両の頬を景気づけにパンとはたくと、肩をそびやかせて大広間へ向かった。
そしていま、彼女はひどく気詰まりな気分で画面に向き合っていた。
自分が打つキーボードの音だけが静かに響く。視線をちらと戸口へ向ける。障子戸の向こうのシルエットと、少しだけはみ出す形で近侍を務める大倶利伽羅の後ろ姿がそこにあった。
仕事を始めようと文机に置かれた端末の前に座った彼女に、何かあれば呼べとだけ言って大倶利伽羅は縁側の方へ出て障子戸に背を預ける格好で腰を下ろしてしまった。
慌てた彼女が、近侍の仕事は?と尋ねると大倶利伽羅は眉をひそめて、あんたは今から机に向かうんだろう、と何を言っているのかと言いたげな表情で返された。
「それはそうだけど……」
「なら俺のやることなんてない。それはあんたがやるべきことだ」
「じゃあほら、書類をまとめるとか!」
「手が必要になったら言え」
長谷部なら自主的にやってくれるのに、と一瞬ちらりと思ったことが伝わってしまったのか、大倶利伽羅は彼女を一瞥して、息を吐いた。
「言ったはずだ。俺に期待するなと。他のやつに何を望むのも何を期待するのもあんたの勝手だ。だがそれを俺に押し付けるな」
向けられた金色の冷ややかなまなざしに、彼女の肩が跳ねた。
「あんたが何をどうしようと俺にはどうでもいいことだ」
そう言い切って大倶利伽羅は持参していたらしい文庫本を読み始めてしまったので、彼女は仕方なく自分の仕事を始めていた。
ふう、とため息をついて時計を見ると、ちょうど休憩を知らせるアラームが鳴った。おや、と首をかしげる。
これまで近侍を務めていたへし切長谷部や前田藤四郎、薬研藤四郎などはアラームが鳴ったら彼女が何も言わずともお茶を淹れてくると休憩の用意をしてくれていた。けれど今日の近侍は動く気配がない。
ぐっと体を伸ばして軽く肩を揉みつつ、障子戸の向こうに声をかけた。
「ねえ、大倶利伽羅。休憩にしましょう」
彼女の声に答えはしないものの、大倶利伽羅はため息をついて立ち上がって歩いて行った。
何をすればいいのかはどうやら理解しているらしいと知って、どうしてか安堵していた。
だがそれにしても、と胃のあたりをさする。
普段よりも集中できたかもしれないが、いつもの和やかな雰囲気とは真逆すぎて、息がつまりそうだった。
途中、ふとした拍子で横目で様子を見ると、彼は座った時から姿勢を変えずそこにいた。
もしや眠っているのかと声をかけると、渋々と言った様子で肩越しに視線を返してきたので静かにずっと本を読んでいたらしい。書類をまとめるのをお願いすれば、彼はやってくれたが終始無言で、ちょっとした問いかけにも答えてはくれなかった。
戻ってきた大倶利伽羅の手には急須などを載せたお盆があった。
彼女が広げていた卓袱台にそれを乗せ、淡々とした様子ですでに茶葉の入った急須に部屋に備え付けの保温ポットのお湯を入れ、彼女の湯呑へとつぐ。
ふとそこでお盆には急須と小さなお菓子の入った菓子器しかないことに彼女は気がついた。
「あら、大倶利伽羅の湯呑は?」
「俺はいらない。時間になったら下げに来る」
急須を卓袱台に置いて、彼は立ち上がると彼女が止める間もなく執務室を去って行ってしまった。
呆然としつつもお茶を一口飲む。やや濃く色の出たお茶は、彼女のいまの心境を表しているかのように苦みが強かった。
そっけなかったとしても、人間がそうであるように彼らにも彼らなりの他者との距離感があって、大倶利伽羅の場合は特にそれが遠いだけなのだろう。なので彼女はそれを否定するつもりはなかった。
ただ想像以上に壁を作られてしまっているのは、かなり精神的にくるものがあった。
ひっそりと芽生え、日々膨らみ続けている感情を自覚していればなおさらに。
午後も午前とほとんど状況に変わりがなかった。
違いがあったとすれば大倶利伽羅が読んでいた本が上巻から下巻になっていたことくらいだ。
「本を読むのが好きなの?」
「……別に」
もう一度書類をまとめてくれるようお願いをして、そのさなかにふと尋ねてみれば、そっけないながらも返事があって彼女は内心で喜んだ。それほどに彼女は彼とのささやかな会話を欲していた。
「好きなジャンルとかはないの?さっき読んでいたの、ミステリーでしょう」
「そら、これでいいんだろ」
答えることなく、大倶利伽羅はまとめた書類を彼女の手元に押し込んで、今日だけですでに定位置になってしまっている障子戸の向こうへと戻っていった。