乱藤四郎がそこに立ち寄ったのは、ほんの偶然だった。
厨房の一角、大きな食器棚の前に立つ主の手にひとつの湯呑が握られているのを見て、思わず声をかけていた。
「あるじさん、それ」
「ああ、うん。執務室でもお茶を飲むし、だったらひとつ置いておこうと思って。いい柄だし。誰も使っていない様子だから。それとも誰か使ってる?」
「ううん、いないよ」
──でもそれは前のあるじさんが大切に使っていたものなんだ。
乱藤四郎はのど元まで出かかった言葉を飲み込んだ。
もしも告げて、どうして処分しないのかと言われそうで怖いというのがあった。
誰も使っていないのに客用でもなさそうなそれが置いてあることに主が疑問を持つより前に、なんとか意識をそらしたい乱藤四郎は、頭をフル回転させた。
「……ねえあるじさん!せっかくなら新しいのを買おうよ。ボクがあるじさんにピッタリな柄を選んであげる!デートしよっ?」
ボク、あるじさんと一緒にお出かけしたいな、と乱は首を傾げて可愛くおねだりした。
「うーん、嬉しい誘いだけど、せっかくあるのを活用しないのはもったいないじゃない?」
「あるじさんに似合う柄があって、それを逃しちゃうのはもっともったいないよ!それにほらここ、よく見たらふちが欠けちゃってる。これでお茶を飲んでもしもあるじさんがケガしちゃったらどうするの?あるじさんのかわいい唇が傷ついちゃうの、ボク見たくないよ……」
眉を下げて、青い目を潤ませて懇願すると、彼女の心をかなり動かせたようで、しばしの沈黙の後、うなずいてくれた。
「じゃあ早速行こうよ!ボク、着替えてくるから、あるじさんもうんと可愛く支度してね!」
さりげなく主の手から湯呑を取り返し、乱藤四郎は待ち合わせ場所は玄関前だから忘れないでね、と踵を返して厨房を急いで後にした。
──危なかった。
乱藤四郎は息を吐いて、手の中の湯呑に視線を落とす。
そうして彼は自身の部屋ではなく、この湯呑を避難させるべき場所を目指した。
執務の合間にもうけられたちょっとした休憩時間を告げるアラームが鳴った。
その日近侍であった薬研藤四郎は、さて茶でも淹れてくるかと立ち上がって、主に呼び止められた。
「湯呑こっちにあるから、薬研のと急須だけでいいからね」
そう言って指さす先、見慣れない湯呑を見つけて薬研はおや、と片眉を上げた。
白い地に薄紅色の桜がちりばめられた可愛らしいデザインのそれは、いままで見たことがない。
そんな疑問が顔に出たようで、主はこつんと指先で軽くはじいた。
「乱と一緒に食器屋に行って買ってきたの。この柄、乱が選んでくれて」
「へえ、いいんじゃないか。大将によく似合ってる」
「ありがとう。本当は食器棚の奥に置いてあった湯呑をこっちに持ってこようと思ったんだけど、ふちが欠けて危ないって乱も言うから」
食器屋で同じ柄が無いかと一応探してみたが、残念ながら見当たらなかった。
「じゃあ、そいつの仕事初日ってわけだ。それならうんとうまい茶を淹れてやらんとな」
楽しみにしててくれよ、と薬研は軽く手を振って執務室を後にした。
「ねえ薬研。さっき聞きそびれたんだけど、あのふちの欠けた湯呑、どうして処分しないの?」
客用というわけでもなさそうだし、うっかり使ってケガをするのではと心配そうに尋ねてきた主に、薬研は自身の湯呑に視線を落としてしばし黙り込んでいたが、そりゃあ、と口を開きながら目の前の小さな薄皮まんじゅうを一つ取り上げる。
「あいつも、モノだからな。欠けたりひびが入ったからといって簡単に捨てるのは、同じモノである俺たちが忍びなくなるってだけさ」
「そう、なのね。軽率でした。ごめんなさい」
恥ずかしそうに頬を赤らめる主に、薬研はにっこりと笑って見せた。
「気にすんな。だから大将もあいつを静かに見守っていてくれ」
「あれ?無い」
食器棚の扉を開けて、彼女は首をかしげた。
その現場にちょうど居合わせた骨喰藤四郎は、主の姿に首をかしげた。
「なにをしている?」
「ああ、骨喰。この奥にしまっていた湯呑がどこに行ったか知らない?」
「湯呑?どんな柄だ」
この食器棚には多くの皿だけでなく、刀剣男士全員分の湯呑がそろっており、柄も様々で食器屋の一角の様相を呈している。その中で見当たらないと言われてもどれを指しているのかピンとこない。
「ええっと……ああほら、大倶利伽羅の湯呑の色違いのやつ。ふちが欠けてて」
「……本当だ、見当たらない」
骨喰も食器棚を覗いて、確かに奥にあったはずのそれがないことに気づき、眉根を寄せた。
そうして主を振り返る。
「けど何に使うつもりだったんだ」
いくぶんか低くなってしまった声にけれど主は気づいた様子もなく、部屋に置こうと思ってと笑顔を見せる。骨喰は首をかしげた。
「ふちが欠けているものを使えばケガをする」
「ええ、だから湯呑としてじゃなくて、一輪挿しにでもしようと思って。ほらたまに遠征から戻ったみんなが花をお土産にくれるでしょう?」
薬研の受け売りだけどと前置きして、ふちが欠けていても新たな役目を与えて大事に扱いたいという彼女の言葉に、骨喰藤四郎は複雑な気持ちを抱いた。
あのふちが欠けた湯呑は大倶利伽羅が恋仲であった前の主に贈ったものであることを、ここにいる全員が知っていたし、だからこそふちが欠けただけでは処分したくないと主が大切に使っていたことも知っている。
万が一主がけがをしたらと気にする者もいたが、元は同じ『物』であった彼らにとって、そうやって大事にされることは嬉しくもあった。
だからこそ主が死んでもそれを処分できなかった。そうだというのに、どうしてか見当たらない。
「……きっとそのうち出てくる。だから見守ってやればいい」
そう骨喰が言うと、主は目を丸くして、薬研と同じこと言ってると笑った。
「これなんてどうかな?」
燭台切光忠が手に取ったガラス製の背の高い一輪挿しを見やって、彼女はけれど渋った。
「ガラスはきれいだけど、うっかり倒しちゃうのが気になって」
「そっか。そうだね……」
店内を見回す燭台切をよそに、主である彼女は、柄のついた陶器の一輪挿しが並ぶ棚を眺めた。
『骨喰くんから、ちょうどいい一輪挿しを君が探していると聞いたんだ。少し僕も買い足したいものがあるから、一緒に買い物に行ってくれると嬉しいんだけど』
どうせならその一輪挿しを僕が君に贈りたいな、と燭台切光忠は彼女を誘ってきた。
少し前に大倶利伽羅へ渡した湯呑選びのアドバイスをしてもらったこともあって、彼女はそれならと誘いを受けた。
棚を眺めやる彼女に気づいて、燭台切はその隣に並んだ。
「何か目的の柄でもあるのかい?」
「うーん……ほら、少し前に大倶利伽羅に新しい湯呑を買ったでしょう?あの時燭台切が勧めてくれた柄が結構すてきだったと思って」
あんな感じのがないだろうか、と独り言をつぶやきながら棚の上から下までを視線でなでる主の横顔を見やって、燭台切は左目を細めた。
しっくりくるものが見つからなかったと肩を落とす彼女に、雑貨の店はここだけじゃないからと燭台切は慰め、少し休憩しようとイートインスペースのあるケーキ屋に誘った。
燭台切の目的である、いくつか割れてしまった食器の補充の買い物は済んでおり、まとめて包んで本丸へ送ってもらうよう手配もしてある。
「あの湯呑が見つかればいいのに」
「湯呑?」
ぼやきながらケーキをつつく彼女に、燭台切は反応を見せた。
「食器棚の奥にあったふちの欠けたやつ。骨喰にも言ったんだけど、本当はあれを一輪挿しにしようと思ってたの。だけどいつのまにかどこかに無くなってて。燭台切は見てない?」
「いや、見ていないかな」
「乱にも聞いてみたけど、見てないって言うし。棚に戻したって」
念を押して本当かと尋ねると、あるじさんはボクを疑っているの?ときれいな青い目を潤ませるのでそれ以上の追及は断念していた。
ちょうど一期一振が通りかかって、弟がどうかされましたか、と尋ねられたのも大きい。
再度ため息をついて、気合入れてさがしてみようかなとつぶやく。
「さがすって、まさかその消えた湯呑を?」
「だってどこかで埃かぶっていたら可哀想だと思って。それだったら有効活用したいじゃない」
「有効活用、ね」
小さく微笑んで、燭台切はコーヒーカップに視線を落とす。
「そんなにあの柄が気に入ったんだ?」
「気に入ったっていうか、なんか気になるっていうか」
はっきりとは口にしないが、泳いだ視線や赤くなった耳を見れば、燭台切には理由の推測は難しくなかった。
「……罪な男だね」
「何か言った?」
「ううん、なんでもないよ」
つぶやきを笑顔でごまかして、燭台切はコーヒーを一口飲んだ。