──ガシャンッ
音に床に視線をやれば、湯呑が割れて落ちていた。
「やだ、ごめんなさい!」
審神者が慌てて破片に手を伸ばそうとするのを、そばにいた燭台切光忠が止める。
素手じゃ危ないよ、と声をかけながら燭台切は割れたそれを拾い上げ、その湯呑が誰のものであるかに気づくと表情を曇らせ、ちょうどそばで食器を片付けていた大倶利伽羅を振り向いた。
「ごめん伽羅ちゃん、割れちゃった」
割れた湯呑が大倶利伽羅のものだと知って、審神者は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「ごめんなさい、大倶利伽羅。うっかりぶつかっちゃって……」
「……別に」
「あとで食器屋に行って代わりのを買ってきますね」
「その必要はない」
「でも」
「あんたが気にすることじゃない」
納得いかなそうな審神者を一瞥し、大倶利伽羅は拭いた皿を重ね、食器棚の扉を閉めると厨を出ていく。
審神者はその背を見送って、大きくため息をついた。
「やっぱり怒らせちゃった、のよね?」
つぶやいて燭台切に視線をやると、彼は困ったように眉を下げていた。
「申し訳ないけど、大丈夫、とは断言できないかな。あまりこだわらない伽羅ちゃんが結構気に入っていたものだから」
「……もしかして、前の主さんに?」
「伽羅ちゃんだけじゃなくて僕たちみんなが、初陣のあとに主から貰ったんだ」
問いに燭台切がためらいつつも説明するのを聞いて、彼女はほとんど無意識に視線を彼の手元の割れた湯呑に落とし、唇を噛んだ。
審神者の手には、一つの桐箱があった。
割ってしまった湯呑と同じ柄のものは残念ながら見つけられなかったが、大倶利伽羅に合いそうな色合いのものを見つけたので購入し、名入れとして彼の紋を入れた湯呑が箱に収められている。
それを手に、審神者は非番の大倶利伽羅の姿を探して歩き回っていた。
燭台切光忠に教えてもらったあたりを審神者が見回すと、視線の先で木の根元に腰を下ろしている大倶利伽羅の姿を見つけた。
彼は眠っているのか目を閉じており、その足元には二匹の野良猫が丸まっている。
起こすのは忍びないと思いつつ近づくと、気配に気づいたのか大倶利伽羅が目を開けたが、彼女を一瞥すると視線を野良猫に向ける。
「ごめんなさい、起こしちゃって。いま大丈夫?」
「……なんだ」
話し声で猫も目が覚めたのか、大倶利伽羅の手に甘えた様子ですり寄る。
「この子たち野良よね。ここによく来るの?」
「用件はなんだ」
「あ、これを受け取ってもらいたくて」
そう言って彼女が差し出す桐箱を見やって、彼は不審そうにした。
「こないだ大倶利伽羅の湯呑を割っちゃったでしょう。燭台切からあれが前の主さんからもらったものだったと聞いたの。代わりってほどじゃないんだけど」
「必要ないと言ったはずだ」
言葉をさえぎりながら腰を上げ、大倶利伽羅はその場を後にしようとする。その背に審神者は待って、と声をかけた。
大倶利伽羅は足を止めたが、振り返ることはない。
「わかってるの。あなたが私を主と認められないってことは、ちゃんとわかってるから。でもチャンスが欲しい。あなたにも皆にも、主として認めてもらえるように頑張るから、だから」
「おい」
声に思わずうつむけていた顔を上げると、大倶利伽羅が彼女を振り向いていた。
彼の金色の目に浮かぶ感情はうかがえないが、しかし怒りを孕んでいるわけではないようだ。
「あんたを主と認めないとは俺は一言も言っていない。他の連中も同様だ。何を勘違いしているんだか知らないが、あんたはもう俺たちの主だろう」
「でも、私」
前の主さんのことを誤解してしまったし、と彼女は顔をうつむかせる。
「誤解は解けたんだろ。そもそも、一度だってあんたを認めないと誰かが言ったのか」
「……あ」
思い返してみれば、ここに来た初日から、彼らは歓迎してくれた。
主を失って日が浅く、悲しみもおそらく癒えていないだろうに彼女を笑顔で主と出迎えてくれた彼ら刀剣男士たちはそれから一度だって、彼女に隔意ある態度で接してきたことはない。
すんなり受け入れてはもらえないだろうし、なんだったら拒絶されるかもしれないと覚悟して緊張していた彼女が拍子抜けするほど、彼らは好意的だった。
幽霊騒動を経て、そして先日の歓迎会を境に刀剣男士たちとの距離は近づいたように思う。
大倶利伽羅の態度は初めてあいさつした時と変わらず今も素っ気ないが、彼の審神者に対しての距離が遠いのは元々のことでこの本丸に限ったことではないと聞く。
だがその大倶利伽羅の口からも、主と認めないとは確かに一言も聞かなかった。
もし歓迎していなかったら、最初の日に彼はハッキリとそう口にしただろう。
「やだ、てっきりあなたには全然認められてないとばっかり」
勘違いしてた、と恥ずかしそうな審神者を見やって、大倶利伽羅はため息をつくと、彼女の手から桐箱を取り上げた。
「あ」
「俺たちは刀で、刀には主が必要だ。あんたは戦場を決めて、俺たちをいくさにつれて行ってくれればそれでいい。俺があんたに望むのはそれだけだ」
大倶利伽羅は箱を開け、緩衝材に包まれた湯呑を眺め、けれどなんの感慨もない様子でふたをすると箱を手にしたまま踵を返した。
その背を見送って、彼女はそっと胸を抑えた。
主と認められていた事実を直接彼の口から聞けた喜びと、胸に芽生えているそれが大きくなっていくのを感じていた。
「あれ、それって新しい湯呑?」
部屋に戻ってきた大倶利伽羅の手に見覚えのある箱を見つけ、燭台切は興味深そうに左目を細める。
「一緒に買いに行ったんだろ。さっき貞から聞いた」
白々しい、とため息をつきながら大倶利伽羅は部屋の卓袱台に箱を置くと、中身を取り出した。
「白々しいなんてひどいな。適切なアドバイスをしたって言ってほしいね」
「そういう言い方、どこかの白い奴に似てるぞ」
「嬉しいくせに。まあこの柄を見つけたのは本当に偶然なんだけどね。色も対のようでこれしかないと思って。彼女が僕のアドバイスを信用してくれると言ってくれて助かったよ」
大倶利伽羅の皮肉に笑顔で応じて、燭台切は湯呑に視線をやる。
それを眺めて、大倶利伽羅もかつてのことを思い出していた。
黒っぽい色の地に鈍色の枝と紅色の花の模様が入ったこの湯呑は、恋仲であった主が生きていたころ、大倶利伽羅が誤って割ってしまった主の湯呑と同じ柄の色違いだ。
当時、わざとではないとはいえ割ってしまったことを気にして大倶利伽羅は食器屋へと足を運んだことがある。
大きさも柄もいろいろ種類があって内心で面倒に思ったが、どんなものだろうと使えればいいと適当に手を伸ばしたものは、しかしどうしてか何かが違うと思って買う気になれず、元の場所に戻した。
審神者に就任した当初に買ったものだったと、主本人ではなく燭台切光忠から聞いたことが一瞬よぎったせいで、忌々しいと思いながらも、せめて似たような柄はないかと視線をめぐらせた。
少し前に、自分の初陣後に贈られた湯呑を誤って主が割ってしまい、同じ柄のを探し出して渡されたことがあった。
それで借りを作ったような気分もあり、しばらく探すために店に通い続けることになった。
『──別に良いじゃないか、主が自己満足でやったことなんだ。同じものじゃなきゃ味が変わるわけでもなし』
なかなか見つからずに食器屋通いがつづくなか、そんな風に鶴丸国永に揶揄されたこともある。
しかし自己満足とわかっていても妥協がどうしてもできなかった。もはや意地でもあったかもしれない。
その食器屋で同じ柄が再び並ぶのは珍しいこともあってか、結局以前に主がそうしたように店主に協力してもらってようやく買うことが出来ていた。
大倶利伽羅が贈った白い地に青色の枝と薄緑の花模様の湯呑を、主はずいぶんと気に入ってくれていた。
ふちが欠けて、怪我したら危ないから使わない方がと刀剣男士たちから言われていたようだが、柄が気に入っているからと使い続けていた。
恋仲になって以後、唇を切るかもしれないと大倶利伽羅が気にして「新しいのを買ってやる」と言っても、せっかく見つけてくれたものだから割れるまでは使うのだと言って譲らなかった。 その湯呑は今、使われることも割れることもなく、食器棚の奥にしまわれている。
「あの湯呑の柄はあの子のために伽羅ちゃんが散々通い詰めた結果だし、やっぱり対で持っていてほしかったからね」
「……あの時はあの色一種類だけだった」
返す大倶利伽羅の声にわずかながら拗ねたような、あるいは不満そうな響きが混じる。
もしも色違いがあの時あったのなら、主から二度目に贈られたものとは別に買っていたかもしれない、という一瞬抱いた思いが大倶利伽羅の声を尖らせていた。
もっとも、あの当時は主から想いを告げられてすらいなかったので、この仮定は意味がないが。
「でもあの当時にお揃いにしたら、絶対鶴さんがからかってきたと思うよ」
そう言って優美でありながらいたずらっぽく微笑む燭台切に、大倶利伽羅はその様子をありありと想像してしまい、舌打ち寸前の不愉快そうな表情を浮かべて、燭台切に笑われていた。