外から聞こえる声に大倶利伽羅は目を開けた。
そういえば新たな主となった審神者に客があると聞いていたから、その客がやってきてにぎやかになっているのだろう。
新しい主の客にも外のにぎやかさにも興味がない大倶利伽羅は、確かまだ読みかけの本があったはずだと、体を起こした。
その時部屋の外に気配がして、控えめに戸がたたかれた。
そうして、大倶利伽羅、と彼を呼ぶ声が聞こえてきた。
声にはひどく聞き覚えがあって、けれど聞こえるはずのないものだった。
それを頭でわかっているはずなのに体は勝手に動いて戸を開けて部屋の外を見たが、しかし姿などあるはずがない。
幻聴か、あるいは願望が聞こえさせたのだろう。思っている以上に打ちのめされている自身を見出して、大倶利伽羅が息を吐きだしたとき──。
「伽羅!ちょうどよかった、一緒に来てくれ!」
太鼓鐘貞宗が走ってきて、大倶利伽羅の腕をつかむといま走って来た道を引き返そうとするので、戸惑いつつもその手を振り払った。
「おい、なんだいきなり」
「詳しい話は後だ。とにかく一緒に来てくれ!」
太鼓鐘は再度大倶利伽羅の腕をつかむと有無を言わさず走り出した。
体格差で言えば抵抗できるはずなのに、どうしてか一瞬見せた真剣な表情が大倶利伽羅に抵抗させなかった。
太鼓鐘に引っ張られて連れてこられたのは大広間で、そこでは刀剣男士たちが勢ぞろいしていた。
上座の方には主である審神者と、見慣れない人間がいた。それが主の客なのだろう。
大倶利伽羅の姿に気がついた燭台切光忠が近くに寄ってくる。
「主がらちが明かないからって霊能者を呼んだんだ。鶴さんはたぶん除霊してもらうつもりだったんじゃないかって」
気持ち声を潜めてされた説明に、大倶利伽羅は眉を寄せた。
最近この本丸で起きている幽霊騒動は彼も知っている。
連夜、審神者の前に現れるという白い影。だが本人以外に誰も姿を見ていないので信じようがなく、審神者と男士たちとの間に温度差ができてしまっているのだ。
しかもその幽霊がどうやら前の主らしく、今の主は自分だけの前に現れるのを、この本丸を奪った相手と認識して恨んでいるから、という解釈をしていることを燭台切からそれとなく聞いていた。
さすがに聞き捨てに出来なかったらしい一部の男士が誤解を解こうと試みたが、今の主はそれらも聞き入れた様子はなく、それどころか前の主に対する悪感情が露骨でなくとも表される有様で、すっかり彼らとの間に漂う空気が不穏なものに変わっていた。
自分たちを顕現させた主を失い、それでも新たな主を迎えいれての再びの戦いの日々が始まったはずが、気がつけば幽霊騒動をきっかけに本丸内の空気がこれまでないほどにギスギスするようになっていた。
大倶利伽羅は、本丸内の空気が悪いことよりも本当に幽霊が恋仲であった前の主なのか、ということのほうを気にかけていた。
もしも本当にそうだと言うなら、どうして新たな主の前だけにしか現れないのだろうか、と。
いまはただ、自分を呼ぶ声が聞きたかった。
主の客である霊能者が集合した面々を見渡して、一礼した。
「ここ最近姿を見せているという霊は、まず間違いなくここの前の主である審神者さんです」
前置きもなく告げられた言葉に、大広間の中はざわつく。
「ですが、新しい主さんに思うところがあったわけではありません。刀剣男士の皆さんの前に姿を見せなかったのは単純に同じ審神者同士の波長が合ったから、というだけで複雑な理由ではありません。前の主さんがずっと彼女の前に現れていたのは、代わりに伝えてほしかったからなんです」
「伝えるって何を……」
訝しんだ様子の審神者に、霊能者はニコリとほほ笑んだ。
「たしか亡くなられたとき、言葉を話せなかったんでしたか。ですからちゃんと皆さんにお別れを告げられなかったのが心残りだったそうです。それで姿が見えたあなたになんとか伝えてほしいと現れていた。ただ、見える波長が合っても声をキャッチするのは感情的に難しかったんでしょう。結果的にあなたを追いつめることになってしまった。その方はそのことも気にされてますね」
霊能者の説明に、審神者は顔を青ざめさせて口元を手で覆った。
「それじゃあ私、ずっと勘違いを……?」
大広間には刀剣男士たちが集まり、霊能者を囲むような形で、座る者や立っている者などさまざまに様子をうかがっていた。
向けられる関心を意に介した様子もなく、霊能者は何事かブツブツとつぶやきながら手を合わせていたが、ふと何の前触れもなく上半身を前に倒した。
審神者も男士たちもぎょっとしたが、やがてゆっくりと身を起こした霊能者はぼんやりとした表情で周りを見回し、そうして深々と頭を下げて、ごめんなさい、と謝罪を口にした。
──皆に迷惑をかけたことを謝りたかった。そしてちゃんとお別れが言えないままだったことが気がかりだった。何度も何度も姿を見せて本当にごめんなさい。
霊能者の口を通して前の主が別れの言葉を告げた後、大倶利伽羅の左腕を何かが触った感覚があった。
一体何が、と視線を腕に向けた直後、誰もいないはずの縁側の廊下を駆けていく足音がはっきりと響いた。
それは彼らがよく知る足音だった。
「……ああ、あの子の足音だな」
感慨深げな様子で三日月宗近がこぼす。
「走るなって、いつも言っていたのに、全くあの子は」
小さく笑って、ふいに歌仙兼定は唇をかみしめてうつむいた。まったく雅じゃない、と震える声を聞き取った者は果たしていただろうか。
自分でもわからないうちに涙を流していた山姥切国広は涙をぬぐい、そうして今の主に向き直った。
「主、すまなかった。あんたを信じ切ることが出来ずに、追い詰めてしまった」
そう言って山姥切が頭を下げると、審神者は強く首を横に振って、私こそごめんなさいと床に額をつけるほど頭を下げた。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい。ひどい勘違いをして、前の主さんにも、みんなにもひどいことを言ってしまって……!」
「顔を上げてくれ、主。あんたはあんたなりに必死だったんだ。本当なら俺たちがあんたを支えるべきだったのに」
「国広……」
「主を見送って、別れは出来たのだと思っていた。けどそうじゃなかった。ちゃんとあいつの口から、別れの言葉を聞かなければいつまでも引きずっていたかもしれない。だから……」
ありがとう、と山姥切は再び頭を下げた。
言葉をかけあう審神者と刀剣男士たちを横目に、大倶利伽羅は確かに何かが触れた左腕をさすって離れの方をじっと見つめていた。
その日の夜、大倶利伽羅は夢を見た。
暖かな春の日差しに包まれる本丸に彼はいた。屋敷の中にはどういうわけか彼以外の気配がない。
庭に咲く桜を横目に、彼が向かったのは、執務室と私室が連なる審神者の部屋。
すべての障子戸が閉まっていた中で、そこだけがまるで彼をいざなうように少しだけ開いている。
一歩、また一歩と近づき、障子戸に手をかける。
戸を開けて向けた彼の視線の先には、だが誰の姿もなかった。
あともう他に見ていない部屋は一つしかない。
離れの部屋の障子戸は閉じられていた。
けれど触れようとした一瞬で、彼は気付いた。
自分が何を捜しているのか、そしてそれがこの戸を隔てた向こうにあることを。
勢いよく障子戸を開ける。彼の目の前には、彼に背を向けて座る、見覚えある姿。
「……あんたは、最初からずっとここにいたのか」
新たな主の前に姿を見せる前から、ずっと。
大倶利伽羅の声にそれは振り向き、そうしてうなずいた。
腕の中で主が身動ぎする。
振り向いて顔を見せて、主が彼の名を呼んだ次の瞬間に、大倶利伽羅は衝動的に手を伸ばして抱きしめていた。
大倶利伽羅、と呼ぶ声に腕の力を緩め、けれど抱きかかえたまま視線を合わせる。
「あんたが俺に夢を見せているのか。それとも……」
問いに、わからないと首を振りながらもちゃんとお別れが言いたかったのだと告げる主がためらいがちに大倶利伽羅へと手を伸ばす。
その手をつかんで彼は口づけを落とした。
夢から覚めれば、もう一度こうして顔を合わせることが出来るのかさえ分からない。
目覚めてしまう前に、この顔を記憶に焼き付けておきたい。
顔を寄せれば主は恥ずかしそうに視線をそらすが、彼はそれを許さないとばかりに主の両の頬を手のひらで包みながらこちらを向いてくれと声をかけた。
もっと距離を縮めていればよかった。触れて、自分だけのものにしていればよかった。
──俺を置いていくなと、死の間際に言えばよかった。
けれどあの時の主は目も見えず、耳も聞こえず、話すこともできなかった。何を言ったところで、言葉は届かなかった。
それでも、口に出すべきだった。いまここで出したところでどうしようもないことに比べたら、ずっとずっと、抱える未練が違っていただろうに。
大倶利伽羅、と主の声が彼を呼んで、手が彼の髪を撫でる。
新しい主さんのこと支えてあげてね。そう言ってほほ笑む表情はどこかさみしそうなのに、声が震えていないことが腹立たしかった。
別れを告げられなかったことだけが未練だったなど、あまりにも薄情だ。
「俺は刀だ。刀には主が必要だ。けれど……俺には、あんたも必要だ」
主、審神者としてではなく、一人の人間として目の前の存在が欲しい。
刀を持っていた人間は数多くいた。けれどいまここで、彼自身の意思で欲しいと思ったのは目の前の存在だけだ。
「俺を置いていくな──」
涙なんて出る感覚はないのに、声が震えてしまって、大倶利伽羅は唇をかんだ。
その日以来、大倶利伽羅は恋仲であった主の夢を見ることはなかった。