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亡失の呪い-if 2-

静かな足音が聞こえて、彼女は目を覚ました。
音を立てないように私室を出て、手前にある執務室の障子戸をそっと開ける。 視線の先に、離れの部屋に入ろうとする前田藤四郎の姿があった。
その手には水の入ったコップと切り分けた果物や菓子の入った器を載せたお膳を持っている。
彼女は眉を寄せ、障子戸を閉めた。

奥の部屋に戻り、彼女はため息をついて布団にねそべった。
気づいてしまわなければこんな気持ちを抱えることもなかったのに。

審神者となってこの本丸の主として迎えられてひと月が経つ。
刀剣男士たちは彼女を新たな主として慕ってくれ、彼女の采配によって戦場に繰り出し、敵の時間遡行軍を屠ってきたが、それでもどこか立ち入れない壁を時々感じることがあった。
だがもちろん、一度として隔意ある態度を取られたことはない。
幼い見た目の短刀男士たちは何かとそばに侍って日々に不足が無いかと気遣ってくれ、それ以外の男士たちも折に触れて声をかけてくれたりもしていた。なのにどこか疎外感がぬぐえなかった。その原因はまもなく判明した。

この屋敷の離れの部屋には、前の主の後飾り祭壇が置かれている。
こんのすけは四十九日を過ぎたら納骨をするのでそれまでの設置をご了承ください、と言っていたが、彼女の心情はいくらか複雑で、ひどくもやもやしたものがあった。
先ほどのように毎朝、供え物を手に誰かしらが離れの部屋に入っていくのだ。それを悪いとは言わないが、けれど不審と疑問は抱かずにいられない。
そもそもどうしてこの本丸に後飾り祭壇なんて置いているのだろうか、と。

いくら審神者は本丸で生活しているのが基本とはいえ、死んでその役目が終わったのならば、もはやここは居場所ではないはずなのに。前の審神者の実家は何も言わないのだろうか。
自分の子供が死んでいるのに、遺骨も遺影も職場にあるようなものではないか、と。

――今のみんなの主は、私なのに。

そんなもやもやとした感情がここしばらくずっと胸にあった。
彼らが当たり前のようにしていることを止める権利などない。そう思っているのに、苛立ってしまうのはどうしようもない。
自分を主に迎えると言ってくれたのは、単なる建前でしかなかったのだろうかと後ろ向きの考えが沸いてくる。
いいかげん、自分の精神衛生のためにも尋ねてみたほうがいいのだろうか。 刀剣男士たちは前の主である審神者のことは初めから無かったように話題にはしない。けれどああして毎朝の供え物は欠かさない。
気を遣ってもらっているのに、一方でないがしろにされているような気分になってしまっていた。

休憩時間を告げるアラームが鳴り、書類をまとめていた近侍のへし切長谷部がしばしお待ちを、と言って執務室を出ていった。
その背を見送りながら、障子戸の向こうに離れの部屋が見えて、彼女は唇を引き結んだ。

戻ってきてお茶を淹れ始めた長谷部に、彼女は何でもない風を装って尋ねてみることにした。
散々くすぶらせていたのに、いざ口にしてしまうとあっさり出てしまうのだからおかしな話だ。

「ねえ、長谷部。前の主さんの後飾り祭壇ってあるじゃない?あれって普通自分の家に設置する物じゃないの?ご家族から何も言われない?」
彼女の問いにへし切長谷部は手に持つ急須を揺らしてお茶をこぼしてしまい、すみませんと謝って濡れた卓袱台を拭き始めた。
その様子に何かまずいことを言ったらしいと気づいて、彼女は背筋を伸ばした。彼がこんな風に動揺している姿は見たことがない。

「えっと、ごめんなさい、なんか余計なことを訊いちゃったみたい……?」
手のひらに嫌な汗がにじむ。脳裏にはどうしてか、昔に映画で見た態度が豹変して襲いかかってきた殺人鬼の姿が現れている。

「いえ、そうではありません。前の主の家はここなんです。もう生家がないので」
両親も祖父母も亡くなって天涯孤独だと聞いていました、と長谷部は悲壮さも悲痛さも感じさせない、穏やかな声で返した。

夜中、ふいに誰かの声が聞こえた気がして眠りを覚まされた彼女は、羽織りを肩からかけて部屋の外へ出た。
誰か起きて騒いでいるのだろうかとも思ったが、今はまだ喪中だとこんのすけは言っていた。
そのため彼女を歓迎する宴はささやかなもので、日が改まったら盛大に催そうと言ってくれたのは鶴丸国永だった。彼が本丸内の行事や催し一切を自主的に取り仕切っているのだという。

ならば誰の声だろうか。シンとしているあたりを見回し、彼女が寒さに身を震わせたとき――。

庭の池にかかる朱色の橋。その上にぼうっと白い影が見えて、彼女は息を呑んだ。
それはゆらゆらとしていたが、だんだんとハッキリした人の形になって、それが間違いなく顔を彼女に向けていた。
それを認識してようやく、彼女は悲鳴を上げることが出来た。

屋敷内を見回りしていた歌仙兼定が、彼女の悲鳴を聞きつけてだろう、明かりを手に駆けつけた。
「きみ、どうした。ケガはないかい?」
「歌仙……い、いま、白い人影が見えたの」
そう言って彼女は震える指を庭の、橋の方へ向けた。
歌仙はそちらに手にしていた明かりをかざしたが、すでにそこから白い影は消えていた。
「何もいないが……しかし賊が侵入したのだとしたら厄介だな。ひとまずはこんのすけを呼ぶんだ。僕は他の者たちを起こしてくるよ」
そう言って踵を返そうとする歌仙を、彼女が呼び止めた。
「待って。あれは賊なんかじゃないと思う」
「なぜそう言えるんだい?」
「だって私が姿を見たのを、向こうも確かに見たのに何もしなかった。悲鳴を上げたら消えちゃったし……あの消え方は、幽霊だと思う」


「は、幽霊を見た?」
思わずといった様子でぽかんとして、鶴丸国永は味を見ようと口元へ運びかけた小皿を途中で止めた。
この日の朝の当番は歌仙兼定、鶴丸国永、宗三左文字、骨喰藤四郎の四振りだ。
みそ汁を作る鶴丸の横で、歌仙は卵焼きを作っていた。話しながらも手早く卵を巻いていく。

「彼女がそう言う分にはね。無条件で信じているわけではないが、確かにもし賊だとして彼女に目撃されているのになにもしていないのは不自然だ。可能性はあるんじゃないかと僕は思っている」
「……幽霊、ねぇ」
小皿に口をつけ、味噌の加減を見て一つ頷くと鶴丸は火を止め、宗三左文字と骨喰藤四郎は小鉢を用意しながらふと二人の会話に視線を交わし合った。

「おはよう。おや、顔色が悪いようだが、どこか具合でも?」
朝食のために大広間にやってきた審神者をふと見た石切丸は、彼女の顔色が優れないことに気づいて声をかけた。
「うん、ちょっとね……」
「私でよければ相談に乗らせてもらうよ。誰かに話をするだけでもずいぶんと違うものだからね」
「ありがとう、石切丸」
はにかんだ審神者に応えるように石切丸もほほ笑んだ。

それからの数日。夜中の見回り当番の男士は必ず一度は審神者が白い影を目撃したと証言する状況に遭遇することになった。
当初は何かを見間違えたのかあるいは寝ぼけていたのではないかと訝しんでいた一部の男士も、そう言ったことが続くと何かがあるのではないかと考えるようになっていた。
ただなぜか主である審神者以外に目撃されず、男士の誰一人もが姿を見たことがない。そのため不信感を抱く者もいた。

そしてこの夜、にっかり青江は審神者たっての願いもあって特によく姿を見るという庭の橋のそばで警戒することになった。
主の命ならば仕方ないと引き受けたが、いざ来てみれば戦装束の鶴丸国永と御手杵がすでにいたので、首をかしげた。

「おやどうしたんだい、二人とも」
「きみ一人じゃ手に余る相手かもしれないかと思ってな。まあ手が多い方が何かといいだろ」
深くは気にするな、と鶴丸はのんきな様子だ。その横で御手杵も自身の槍を抱えながら、春でも夜は冷えるな、と両手をこすり合わせる。吐きだした息は白く、闇夜に吸い込まれていく。
「俺はまあ、ここ数日なんでか眠れないんだよなぁ。だからまあ暇つぶしってとこか」
「幽霊退治が暇つぶしとはね」
「そもそも幽霊って決まったのか?」
「さあ。彼女はそう信じてるみたいだけれど」
そう言って青江は肩をすくめたが、実は少し気になる話もある、と声を潜める。
鶴丸と御手杵は視線を交わし、そろって青江を見た。

「幽霊は――あの子かもしれない」
二人の視線を受けて、青江が口にした言葉は静かな夜の中でやけにはっきりと聞こえた。
御手杵は無意識に槍を握る手に力を込め、鶴丸は訝し気に目を細める。

彼自身の刀としての逸話はともかく、幽霊を見たという審神者の話に対して、にっかり青江は最初懐疑的であった。 場所も庭の橋だというから、今の時期咲いている桜を闇夜の中で見間違えたのではないかとも考えた。
けれど何度も話を聞くようになって、そして実はと彼女から聞かされた話に、まさかと思いながらも確かめずにはいられなかったのだ。

「彼女は言っていた。間違いないとは断言できないけど、よく似ていたって」

あの子。この本丸の、僕たちの──前の主に。

「それを他に誰か知ってるやつは?」
尋ねる鶴丸の声は硬い。青江は首を横に振り、むやみに誰かに話せないと言っていたともつけ加えた。
「彼女なりに気づいているんじゃないかな。僕たちの中には、あの子のことを引きずっているのが少なからずいるって」
「……僕たちの中に、ね」
意味ありげな返しをして、鶴丸はあたりを見回した。
池の周りの石灯籠には明かりがついてはいるが、その光すら届かないところは暗く、どこか吸い込まれそうな得体の知れない空気を周囲に感じる。

「もしあの子だっていうなら、彼女の前じゃなくて俺たちの前に顔を見せてくれりゃいいのにな」
怖がりのくせに、一人ぼっちでどうしているんだか。

思い出すのは、よほどのことがなければ夜には庭であろうと足を運ぼうとはしなかった怖がりの主の姿だ。
三人の映画鑑賞に巻き込まれて怖い思いをした最初の記憶がよほど強く残っているのだろう。 こうして鶴丸国永、にっかり青江、御手杵の三人が一緒にいるのを見るたび、主は苦手な怖いものに関わってしまうのを恐れてか逃げ出していた。

ぽつりとつぶやいた鶴丸国永の言葉に、にっかり青江は池に視線をやり、御手杵は桜を見やって、共に何も言葉を返さなかった。 その夜は結局、青江たちが何かを見つけることはなかった。


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