病院、と首をかしげると、山姥切国広がうなずく。
「五感は戻ったのに、どうしてまだ声が戻らないのかを診てもらった方がいいんじゃないかと思ってな」
山姥切の提案に目を伏せて首を横に振った。そうして端末に文字を打ちこむ。
『みんなの声も聞こえるし、そんなに不自由ないからいますぐじゃなくても平気』
「何言ってるんだ。そんなわけにはいかないだろう」
『でもいま病院に先生いないのに』
「別の病院をこんのすけに調べさせればいい。もしまだ呪いが解けてないとしたら、放っておいてまたあんたが死にかけるようなことにでもなれば俺は……」
頼む、と山姥切は手を強く握りしめてくる。
その強さと、どこか傷ついたような翡翠色の目に、うなずかないという選択はできなかった。
呪いに関する専門家がいる別の病院で診てもらったが、かすかに残滓があるだけでそこから声が戻らない原因を探るのは難しいという結果だった。
可能なら呪いを生み出した本人に聞きだしたほうが早いとまで言われ、山姥切国広は瞬間的に沸いた怒鳴りつけたい衝動を何とかこらえつつ、主の手を引いて足早に病院を後にした。
病院を調べるにあたって、声が戻らないことがどこからか男の耳に入ったらしく、本人が会いにくれば完全な呪いの解き方を教えてやってもいいと書いた手紙を送ってきたのだとこんのすけは言っていた。
主をあの男に関わらせたくない山姥切にしてみれば、ふざけた話以外の何物でもなく、こんのすけに八つ当たりさえしていたが、まさかここでもそんな不愉快なことを勧められるとは。
「こんのすけのやつ、もうちょっとまともな病院を紹介できないのか」
苛立ち紛れに吐き捨てると、握っている手にそっと重なった感覚があって山姥切は足を止めた。
振り向けば、主がゆっくりと首を横に振って端末に打った文字を見せてくる。
『焦らなくても大丈夫だからもうちょっと様子を見よう?』
「主……」
声を失ってすでに数か月が経つ。
主の言う『もうちょっと』をあとどれだけ待てばいいというのだろう。
ある日の夜中、大倶利伽羅が見回りで執務室の方へ向かうと、障子戸の向こうにぼんやりと明かりが見えた。
まだ寝ていないのかと呆れながら向かい、開けるぞと声をかけて戸を横に滑らせる。
果たしてそこには、文机に突っ伏して眠る主の姿があった。
中に入って戸を閉め、明かりを足元に置く。
羽織を肩から掛けただけの薄い浴衣姿でうたた寝など、体調が万全でない自覚はあるのだろうかとため息をつき、大倶利伽羅は主の体を抱き上げると奥へと向かった。
敷かれていた布団に主を下ろし、横たわらせて掛け布団をかけてやったところで、主が身動ぎして目を開けた。
口を動かすが、変わらず音にはならない。
「あんなところで眠っていたら風邪を引く」
主は眠そうな様子で、けれど大倶利伽羅の話すことは理解しているのかうなずき、そうしてほほえんだ。
ありがとう、と動かす口の形を読み取って、大倶利伽羅は主の髪を撫でる。
出陣から帰ってきた後に加州清光が主に甘えていた光景と鶴丸の言葉がよぎり、そうして覆いかぶさって首筋に顔をうずめた。
身じろぐ形で主の戸惑いが伝わってきたが、やがて彼の髪をそっと撫でる手の感触があった。
衝動的に言葉を吐きそうになって唇を引き結んでこらえる。
情けないことは言いたくない。
だが頭を撫でられる感触に頑なだったものがほぐれていくのを感じると同時に、言葉を伝えるべき時に伝えなければ後悔すると何かが彼の背中を押した。
「……あんたの声が聞きたい。誰よりも、一番最初に」
いってらっしゃい、と主の声で送り出されたい。おかえりなさい、と主の声で迎えられたい。
だが何よりも主の声で名前を呼ばれたい。
「なあ、いつになったらあんたの声が聞けるんだ」
いい加減、どうにかなってしまいそうだ。
「主、もう一人で歩いても平気なようですね」
太郎太刀、次郎太刀の兄弟二振りの部屋の前を通りがかると、ちょうど部屋から出てきた太郎太刀が、おやと眉を上げた。
その声にさらに中から顔を覗かせたのは次郎太刀と、そしてどうやら部屋を訪ねていたらしい日本号の姿もあった。
「おお、顔色も良くなってるねぇ。ということは……これでアタシも遠慮せず酒が飲めるってわけだ!」
「おいおい、いつ遠慮なんてしてたんだよ」
まあ俺も遠慮なんてしてなかったが、と日本号は肩をすくめ、頭をぐしゃりと撫でてきて、元気そうだなと顔を覗き込んでくる。
「よっし、それじゃあ今夜はパーッとやるか!」
「おお、いいねぇ!」
日本号の提案に次郎太刀がうなずき、揃って豪快に笑った。
珍しく太郎太刀はそれに呆れた表情をするでもなく、そうですねと小さく笑った。
「……どうした。何か用か」
馬屋に入って辺りを見回していると、声と共にすっと気配が近づいて、顔を上げると大典太光世がこちらを見下ろしていた。
目元がやや影になっているためにその迫力に驚いて思わず肩が揺れてしまう。
彼はこちらをじっと見て、そうして息を吐いた。
「元気そうだな」
安心した、と大典太は消え入りそうな声で呟いて、馬の世話に戻っていった。
その様子にやや呆然としていると、ひょいと馬の陰から薬研藤四郎が顔を出す。
「よう、大将。誰か捜してるのか?」
問いにうなずくと、彼は馬の鼻先を撫でてやってじっとどこかを見つめた。
「……そうだなぁ、たぶん大将が捜している相手は、林道の方に行ったんじゃないか」
自分が捜している相手が誰かも言っていないのに、と思いながら薬研を見る。疑問が表情に出ていたようで、彼はニッと笑って声を潜めた。
「大将の考えてることなんて、俺たちみんなお見通しだ」
そう言って片目をつぶって、行って来いよと背中を軽く叩かれ、顔を赤くしながらうなずいた。
屋敷を出た先の林道はゆるやかな坂になっている。
それを上りきった先、ひらけた場所には一本の桜の木が植えられているが、すでに葉桜となっていた。
そして目的の彼はその桜の木の根元に腰をおろし、両腕を組んで目を閉じていた。
眠っている彼のそばに寄り、そっと顔を覗き込む。
これだけ近づいているのに目を覚まさないなんて、と不思議に思いながら見つめ、息を吐き出して口を開いた。
大倶利伽羅、と呼んだ声は、自分で思っていた以上にみっともなくかすれていた。
朝になってようやく声が出るようになったのだが、まだまだ本調子からはほど遠いため、誰にも言っていなかった。何より、彼が望んでくれたのだから最初に声を出すのなら、と思っていた。
喉をさするとかすかだが痛みがあるので、完全復活というわけにはいかないのだろう。
痛みに顔をしかめたところで枝を揺するほどの強い風が吹いた。
ゆれる枝葉の景色と風がつむぐ音に意識を向けていると、急に手首をつかまれた。
振り向けば、大倶利伽羅が目を開けてこちらを見ていた。
「……いま、俺を呼んだだろう」
大倶利伽羅のその言葉にためらいはなく、そしてまなざしには確信が宿っていた。
うなずいて、もう一度彼の名を呼んだ。
今度はさきほどよりもかすれずに済んだことに安堵した瞬間、腕を強く引かれて抱きしめられた。
頬を指の背でそっと撫でれば、大倶利伽羅の腕の中で主が身動ぎして、恥ずかしそうに視線をそらす。
それを許さないとばかりに額同士をつけて至近距離で見つめれば、顔を赤くしながら手に持つ端末に視線を下げて懸命に何か文字を打ちこんでいる。
主がそれを見せてくる前に、彼は額に口づけを落として、そうして頬を撫でていた手で端末をそっと取り上げた。あ、とほとんど吐息のような主の声が漏れた。
「これはもういいだろ。あんたの声で話せよ」
でも、と小さく不安げな声が返ってくる。
こんなささいな一言さえも少し前まで聞くことが出来なかったのだと思うと、なおさら文字を通しての会話などする気が起きない。
主はそれでも、かすれて聞き取りづらいだろうしと遠慮を見せるが、聞こえないことに比べればあまりにささいな理由だ。
「構わない。あんたの声が聞きたいだけだ」
ささやいて、目元に口づけを落とす。そこから輪郭をたどるように唇で触れていく。
らしくないことをしていると、箍が外れかけている自覚が大倶利伽羅にはあった。
けれどこんなのは我慢しろという方が無理だと思いながら、主の手に唇を押し当てる。
ようやく聞くことが出来た声。そしてきっと主は誰よりも最初に自分の名前を呼んでくれたはずだ。
一番信頼している刀ではなく、自分を。嬉しくないわけがない。
ずっと胸の内に居座っていた寂寥感がようやく消えていくのを感じていた。