ビーズ素材のクッションに座ってこんのすけからどうしてもと渡されていた書類に目を通していたが、ふと空腹を自覚してお腹をさすった。
花の匂いを嗅ぎ取れたからと言って味がわかるとは限らないが、少し何か食べたいという気持ちは芽生えていたので、何か簡単につまめるものを探そうと思いながら肩にかけていた花柄の羽織の袖に腕を通す。
しばらく寝たきり状態だったせいもあって足が弱っていた。文机につかまりながらゆっくり立ち上がったところで執務室の障子戸が開く。そこにいたのは大倶利伽羅だった。
立ち上がっている主の姿を目に留め、大倶利伽羅は眉をひそめると中に入って手にしていたお盆を文机に置く。
そうして主の体を抱きあげるとクッションに座らせた。
「どうして一人で動こうとするんだ。まだあんたは万全じゃない。それを自覚してくれ」
知らず声が低くなって尖ってしまう。そんな彼に主は肩を揺らす。
ごめんなさい、と両手を合わせて首をかしげるので大倶利伽羅はため息をついて、少し早いが夕飯だと告げた。
「匂いがわかるなら少しくらいは食べられるんじゃないかと、光忠と歌仙が作った」
小さな土鍋やレンゲ、汁物の碗を載せたお盆を広げた卓袱台に置いて、土鍋のふたを開けると湯気が上がり、そこから香りが漂う。
主も嗅ぎ取ったようでその背がすっと伸びるのを見て安堵する気持ちを抱えながら、大倶利伽羅が器にお粥をよそっていると、空腹を訴えるような音が聞こえた。
はっきりとした音に思わず視線を向ければ、主が恥ずかしそうに顔を背けていた。
レンゲにお粥をすくいあげ、息を吹きかけて冷ますと、主の口元に運んだ。
「ほら、口を開けろ」
だが主は横に首を振って自分で食べられると身振り手振りで伝えてきたが、大倶利伽羅は素知らぬふりをして譲らなかった。
仕方ないとあきらめ顔で開かれた主の口の中にゆっくりと粥を入れると、目を閉じて顔を赤くしながら咀嚼していく。
そうして味もちゃんとわかったようで、主は笑顔を浮かべた。
ちゃんと一人で食べられる、と端末の画面で伝えてきた主の手に、大倶利伽羅は器を乗せた。
手ずから全部食べさせてやりたいが、恥ずかしがって食べないと言い出すことも考えて妥協した。
それにどうせなら食べて浮かべるだろう笑顔のほうが見たい。
レンゲですくい、二口目を口にする。冷ましが足りなかったのか熱かったようで、口元をおさえて身をよじる姿にすかさず水を注いだコップをため息をつきながら渡した。
「落ち着いて食わないからそうなるんだ」
舌先を火傷したようで、主が舌を出して痛そうにしながら二度三度とうなずいた。
空になった土鍋などの汚れ物を手に大倶利伽羅が厨に入ると、夕食の当番担当の男士たちが支度に忙しくしているところだった。
その一振りである加州清光が大倶利伽羅に気づいて、主はちゃんと食べられたのかと聞いてくる。
「ああ。きれいに平らげた」
「おー、いいね。この様子じゃ普通のご飯に戻るのも早いかな」
ねえ、と加州が燭台切光忠を振り返る。
濡れた手を拭きながら燭台切は空になった土鍋を見て、眼差しをやわらげた。
「良かった。片付けはこっちでやるから、伽羅ちゃんは主の所に戻ってあげなよ」
「すまん、頼んだ」
出ていく大倶利伽羅を見送った加州は、機嫌良さそう、とため息ついた。
「そりゃ今回の謹慎に建前以上の意味なんてないもんな」
そう言って肩をすくめたのは同じく当番の獅子王だ。
今回の事件の犯人とはいえ、身動きできない格好の相手を殴ったことに対してはさすがに何もお咎めなしというわけにはいかない、ということで大倶利伽羅に対して政府は二週間の謹慎と審神者の看病という処分を下していた。
刀剣男士にとっての謹慎とは、出陣や遠征に出されないことを指す。
ただそれが下されたのが主が遠征に刀剣男士を出しはじめた頃で、その処分があくまでも建前であることは明白だった。
加えて課された審神者の看病。つまりは病み上がりの主の世話だが、この本丸の大倶利伽羅にとっては罰にすらならないものだ。
「建前どころか二人をイチャつかせるためのお膳立てかと疑ったっての。甘々な処分にもほどがあるだろ」
やってられないと加州は首を振り、燭台切と歌仙兼定がそろって笑い声を上げた。
ああ、と声を出してみようとしたがまだ音にはならないことを再確認したところで、大将と呼びかけられて振り向くと、薬研藤四郎が執務室の戸口に立っていた。
「おはよう、大将。迎えに来たぞ。調子はどうだ?」
大丈夫、という言葉の代わりに大きくうなずくと、薬研は目を瞬いて、まだ声は戻らないかと気づかわしげな表情を浮かべるので端末に文字を打ちこむ。
『まだしばらくめいわくかけることになってごめんね』
「気にすんなよ。大将がそうやって起き上がれるようになっただけでも俺たちには充分さ」
そりゃ欲を言えば完全復活してほしいが、と薬研は笑みを浮かべ、そうして手を差し出してきた。
「行こうぜ。今日から朝飯を大将と一緒に食えるってんでみんな心待ちにしてるんだ」
俺がじゃんけんで迎えの一番手を勝ち取ってやった、と薬研はいたずらっぽく笑った。
三度の食事が出来るようになってきたので、以前のように大広間で刀剣男士たちと一緒に取りたいと山姥切国広に願い出た。
山姥切はもちろんとうなずいてくれたが、明日の朝は迎えをよこすからそれまでおとなしく待っていろと厳命もされた。
元々走ったりすると何もないところで転ぶことが多いのに加え、起き上がれるようになった直後は部屋の中を動くのでも物や壁につかまったりしながらでなければ難しいほど歩きが覚束なかった。
ここ何日かは執務室と私室を行き来したり、洗面所やお風呂場などへは自分の足で移動できるまでになっていたが、長い距離となると一人ではまだ不安があるので、こうして迎えに来てもらうのは素直にうれしい。
薬研にゆっくりと手を引かれて大広間に顔を出すと、食卓の準備をしていた刀剣男士たちが視線を向け、そのなかでもちょうど手の空いていた短刀や脇差の男士たちがすぐさま周囲を取り囲んだ。
「おはよう、主さん!」
「あるじさま、おはようございます……!」
「おはようございます、主様」
愛染国俊、五虎退、物吉貞宗がそれぞれかけてくる声に、おはよう、と口だけで動かす。
彼らは一瞬寂しそうな表情を浮かべ、けれど笑顔を見せると手を取っていつも座る場所へとつれて行ってくれた。
「またこうして主と食事をご一緒できるとはな。しかし、まだ完全な解毒は出来ていないか」
嬉しさに口元をほころばせたへし切長谷部だが、ふとまだ主の声が戻っていないことにため息をつきつつ、ご飯を茶碗によそっていく。
「そういえば五感を奪う呪いなのに、どうして最初は声だったんだろう」
盛られた茶碗を受け取りながらもう片手で空の茶碗を渡すという作業を器用にこなしながら堀川国広が独り言のように疑問を呈すると、長谷部は眉を寄せた。
「まさか声は今回の呪いと関係ないとでもいうのか?」
そもそも五感が失われていく呪いといいながら、どうして最初に失われたのが関係のない声なのか。
思えば、いろいろなことに追われてそのことに疑問を呈する暇もなかった。
まさかまだこれ以上主が苦しむ必要があるというのか、としゃもじを握る手に思わず力がこもる。
怒りに震える長谷部の背中を、漬物の小皿を載せたお盆を持つ宗三左文字が軽く蹴って、手が止まってますよ、と急かす。
「宗三、貴様!」
「ご飯が冷めるでしょう。主にそんなのを食べさせたいっていうなら別ですけど」
主のことを出されるとそれ以上の反論は無意味になる。
長谷部は唇を引き結んでご飯をよそう速度を上げた。
いってらっしゃい、と主の口が動く。だがそこに音はない。
声が戻らないまま出陣を見送った主の笑顔が脳裏から離れず、大倶利伽羅は舌打ちと共に敵を斬り倒し、直後に横合いから飛んできた敵短刀に向かって返すように刃を振るう。
巴形薙刀が敵の部隊長の大太刀を薙ぐ。それによって一掃したようで、敵がすべて塵となって消えた。
「あーあ、また活躍できなかった。巴形がほとんど倒しちゃうから俺たちの出番ないんだけど」
唇を尖らせて抗議する加州清光に、巴形薙刀は首をかしげる。
「余計なケガを負わないのなら悪いことではないはずだ。何か問題か?」
「そりゃ今の主の体調考えたらそうだけどさぁ」
「おい、帰還するぞ。もたもたするな」
「はいはい」
大倶利伽羅は、謹慎期間が明けたら戦いに出たいと主に申し出ていた。
主はもちろんとうなずいて、いろいろと迷惑をかけてしまったので望みはできるだけ叶えたいとも言ってくれていた。
そして謹慎が明け、休みを一日挟んでの出陣の日。
約束通りに出陣の部隊に編成され、部隊長にも据えられていた。
久しぶりに出られた戦場に、戦士として在る体も、体中を巡る血も間違いなく高揚しているのに、頭の隅で早く戻りたいという声がしていた。
刀を振るいたくないわけではないはずなのに、早く早くと急かす声は次第に大きくなる。
同時に、敵を倒していくなかでどうしてか生まれた妙な感覚は次第に存在感を増し、やがてそれには寂寥感という名がついた。
急かす声を聞かぬふりをして刀を振るい、帰還して主に出迎えられた。
そこで彼は寂寥感の理由と、急かす声の意味を理解した。
──主の声が聞きたい。叶うならば他の刀の誰よりも、一番最初に。
早く声を取り戻してほしいのに、それが自分がそばにいない時であったらと思うと焦りが生まれる。
けれど片時も離れずにいるというのは現実的ではない。
なによりその思いを易々と外に出すことは、彼にとっては弱さをさらけ出すのと同じで、そして出したところでどうしようもないことを知っていた。
それからしばらく、出陣できなかった日々を埋めるようにいくさに出たが、どれだけ刀を振るっても一度認識したその感覚は消えることはなく、彼の心をじわじわと侵食していった。
おかえりなさい、と形だけ唇を動かして、笑顔で出迎える主の姿に大倶利伽羅はほとんど無意識に眉を寄せていた。それに主が気づいて不思議そうにしたが、さえぎる形で加州が飛びついた。
「主ー、あんまり活躍できなかったら俺気分上がんない。慰めて」
そう言って肩口に顔をうずめて加州が甘える。
その光景に大倶利伽羅が小さく舌打ちした時、背後から声が聞こえた。
「甘えたいときは素直になるもんだぜ」
大倶利伽羅が肩越しに睨むと、鶴丸国永が農具を手にして立っていた。
おつかれ、と声をかけながらも、その顔には何かを企んでいそうな表情を浮かべている。
下手に返事をすると面倒なことになる気配を察知して、大倶利伽羅は見なかったことにしようとさっさとその場を離れた。
「ありゃ相当機嫌が悪いな。俺のちょっとしたお茶目も通じないとは」
立ち去る大倶利伽羅の姿を見送りながら、鶴丸はため息をつく。
「元から通じてないでしょ。ていうか、なんで機嫌悪いってわかってて火に油注ぐような真似すんの」
「俺にはきみのほうがかなり火に油を注いでいたように見えたがな」
鶴丸の指摘に、加州は舌を出した。
「いーだろ別に。俺だって主に甘えたいときがあるんだし」
そもそも自分たちはいまここに同じ審神者を主として顕現した刀だ。
たとえ恋仲の相手がいようが、それに対して遠慮してやらなきゃいけないということはない、とは加州の持論である。
「てか大倶利伽羅は二週間も主と一緒だったんだし、俺たちが甘えたくらいじゃ減らないって」
「まあそれは好きにすればいいと思うが。それよりいつになったら主の声は戻るんだろうな」
起き上がり、動けるようになって元気な姿を見せるようになったからこそ、いまだに声だけが戻らないことが彼らの気がかりだった。
嬉々とした表情で自分がしたことを話すあの男のことが脳裏をよぎり、加州は舌打ちした。
「……俺もあの男ぶん殴っときゃよかった」
二人がそんな会話を交わしながら向けた視線の先では、巴形薙刀が、部屋に戻るのなら抱きかかえて行こうと提案して遠慮する主との間でちょっとした攻防が起きていた。