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亡失の呪い-3-

目を開けても、相変わらず暗い視界は何も映さない。
いまは何時で何日なのか、時間や日付の感覚もすっかりわからなくなってしまった。
眠る前の記憶は山姥切国広と誰かに世話されながら入った湯船の温かさにまどろんだ時のものだ。
おそらく気持ち良さにそのまま眠ってしまったのだろう。
さぐりながら体を起こすと、それを誰かに支えられた。

思わず身を硬くする。いったい誰がそばにいるのだろうか。手の感触からして山姥切国広ではない。
体や髪を洗われている間の自分を抱えてくれている誰かとも違う。
とっさに感じた恐怖が、そっと手をつかんできたそれへの反応に現れてしまう。
怯えて引き抜こうとする手の平に、指先らしき感触がゆっくりと動いていることに気づいて、抵抗をやめた。

文字を書こうとしているらしいことを理解して、手の平に意識を集中する。
こうして誰かが文字を伝えようとしてくれるのはずいぶんと久しぶりだ。
やがてそれは、漢字に弱い自分を気遣ってか平仮名でつづられた六文字であることが読み取れた。

「おはよう」という挨拶なら文字数が足りない。「こんにちは」「こんばんは」でも同様に。
最初の文字は「あ」だろうか?それとも形がよく似ている「お」だろうか。
あるいはまったく違う字という可能性もある。
もしかして、挨拶ではなくこの誰かは名前を伝えようとしてくれているのかもしれない、とふと思った。

誰か刀剣男士の名前であると仮定して、読みで六文字の名前を思い出そうとする。
七文字以上の名前を脇に寄せていくが、脳裏でさばききれなくて、結局空いた手で指折り数えて彼らの名前を一つずつ数えていった。

――大倶利伽羅?

まさか、と思いながらもそうだったらいいのにという気持ちに体の緊張が解けていく。
再度指先が手の平に触れたので集中させて文字を待つが、けれど何もない。
もし彼だったら、こんな状態ではなおのこと会話をしようとは思わないのかもしれない。

体に触れたら、この手をつかむ相手の正体がわかるだろうか。
つかまれている手をもう片方の自分の手でたどり、つかむ手に触れる。
そしてそこから腕へとためらいながらも確かめるように触れていき、やがて肩から首へとたどり着いたところでその手をつかまれ、どこかへと導かれる。それは覚えのある感触で。

――ああ、と感じた安堵に自然と頬が緩むのがわかった。

間違いなく大倶利伽羅だ。自分の手の平が、彼の頬の、肌の感触を覚えている。
嬉しかった。いまこうして確信できたことも、光を失う前に彼に触れる機会があったという事実が自分のなかに確かに残っていることも。
指先に触れた彼の柔らかな髪をほとんど無意識で梳いたことに気づいて、我ながら大胆なことをしてしまったと恥ずかしさに慌てて手を離そうとしたが、それは優しくつかまえられていた。

大倶利伽羅は、何かを辿るように腕に触れていく主の手をつかんで自分の頬に触れさせると、口元がうっすらとほほ笑みの形に変わったのを見て、ようやく警戒を解いてくれたかと息を吐いた。
主にとっては他に得られる情報もない状況の中、覚えていてくれたことが素直に嬉しい。
呪いにかかる前はこうして触れることさえ恐る恐るといった様子だったことを思えばなおさらに。

そして思ってしまうことは、触れられるだけでなく触れたい、というもので。
主はこちらに触れているのに自分だけが触れないなど納得がいかないと思いながらも、それが主を苦しめることも彼はわかっていた。
外気にさらされただけでも痛むほどに進行した呪いの所為で、今現在、主の顔の大部分は布に覆われているのだ。だから苦痛を感じさせないためには、布を外させるようなことを望み、伝えなければいい。
その顔は見えたところで痣に覆われ、光を失った目は大倶利伽羅を映すことも、唇が彼の名を呼ぶこともなく、その耳にこちらの声は届かない。

そうわかっているのに、かろうじて覆いきれていない口元が見える所為で気持ちを煽られてしまう。
顔が見たい。頬に触れたい。唇に……。
だがこんな望みは主をただ苦しませるだけでしかない。

葛藤の中、主の指が彼の髪をゆっくりと梳いた。常でもなかった仕草につい驚いたことが伝わってしまったのか、動きを止めた手が離れていく。
とっさにその手をつかんで、指先に唇を寄せた。
いまは何を言ったところで言葉はその耳に入ることはない。
だからこそ言葉ではなく行動で示さなければ、何も伝えられないままだ。

主の手の平に、指でゆっくりと一文字ずつ書いていく。
確実に読み取れるように、簡潔に、せめてと願うたった六文字の言葉を。
「……」
正確に読み取れたかどうかもすぐにはわからないもどかしさに思わず唇を噛んで反応を待つ。
やがて、主がおずおずと言った様子で両腕を広げて、ぎこちなく口元を緩めた。

手の平にその言葉を読み取った時、どうか読み間違いではないことを祈り、誰かにそうだと保証してほしかった。 だきしめたい、と彼が確かに指で伝えてくれたのだと、信じたかった。
そっと両腕を広げて彼の反応を待ち、やがて痣に触れないようにとでもいうように優しく体を抱きしめられたとき、自分の口元がみっともなく緩むのを抑えることが出来なかった。

ためらい、そっと確かめながら彼の背中に手の平を添わせ、ゆっくりと撫でる。
彼は今どんな表情を浮かべているのだろうかとふと思い、けれどきっといつもと変わらないだろうと小さく笑う。
こちらが触れることに戸惑い、ためらっていると呆れたような表情を見せるし、意を決して触れたところで大きく反応してくれるわけではなかった。
いまもきっと常と変わらず静かな表情に違いない。
想像すると気恥ずかしくもあり、彼らしいと安堵もあって、触れることが怖いことではないのだとようやく知ることができた。
こんな状態になって気づくとは、と思いながら、静かに辿るように彼の首筋や後頭部に触れ、柔らかな髪をそっと撫で梳いた。
五感が奪われていく呪いで、最後に残ったのは触覚だった。
だがこれもいずれ失われていくことになる。誰に触れられても、痛みもわからなくなっていく。
そうなったらきっと何もわからないまま死んでいくのだろう。
だったらいっそのこと――。

二人が抱きしめ合っていた時間はそう長くはなかった。ゆっくりとこちらの方から体を離す。
そうして彼の手をつかんで、ある四文字の言葉、さらには少し長い言葉を伝えた。

結果がこちらにわからないのが残念だが、うなずいてくれたらいいのにとぼんやり思った。

ころして、という願いを彼は読み取ってくれただろうか。

審神者に就任したとき、こんのすけの勧めで万が一に備えて遺言書を書いていたが、音が聞こえなくなった時に頼んで書き直させてもらっている。
その時にこんのすけには確認を取っていた。審神者である自分が死んでも、この本丸は戦力も戦績も申し分ないので解体ではなく新しい審神者に引き継がれることになるだろう、と。
ふとそれを思い出したのでちょうどいいと彼に頼むことにした。

こんな状態になって、彼らを戦いに出してやれないことが、顕現している意味を果たさせてやれないのがひどく申し訳なかった。
大倶利伽羅を誰よりもいくさに連れて行くと約束したのに、守ることも出来ていない。
これではなんのためにいまここにいるのか。

近いうちに審神者の役目を降ろされるだろうが、それすらもわからないまま死を迎えるよりは。
好きな人に殺されていることを理解しながら、痛みを感じながら死んでいったほうがいくらかマシなのではないかと、抱きしめられながらそんなことを考えていた。

先に主から離れていったことに大倶利伽羅が物足りなさを覚えて、さらにと手を伸ばしそうになる気持ちを抑えていると、今度は主が彼の手をつかんで、手の平に指先を触れさせた。
何を伝えたいのだろうとそこに意識と視線を集中させていると、やがて紡がれた四文字に息を呑んだ。

『ころし て』

最後の一文字をつむぐ一瞬に間があいたことが、主のためらいの表れと解釈していいのだろうか。
さらに手の平に書いていく。

『おおくりからに ころされたい』

「……あんた、は……」
動揺が声に表れ、大倶利伽羅は歯噛みする。

もう主が限界であることを、認めなければならない。
起き上がろうとしていた姿やとっさに支えた時に感じた脆さを、抱きしめて改めて突きつけられていた。

殺して、主が楽になれるというのならそれを叶えてやりたいと思う。
他ならぬ主が自分に望んだことならば。
だが他の連中はそれを望まないだろうとも彼は考える。

望むはずがない。いまこうしている時も、なにか手がかりか、あるいは主の呪いを解く方法がないだろうかと刀剣男士たちが探し回って、まっすぐに死に向かっている主を引きとめたいとあがいているだから。

そんな彼の思いも他の者たちの思いも知る由もない主は、まるでうながすように彼の手の平を指先で軽く叩いて、首をかしげる。
布で覆いきれていない口元が笑みを刻んでいた。


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