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亡失の呪い-1-

自分が落ち着きがないという自覚はもちろんあった。とっさの時に出る悲鳴が騒がしいことも。
けれどだからといってこんな状況はさすがに想像していない。
そっと喉に触れるとピリッとした痛みが走る。
鏡に映せば、毒々しい紫色の花を思わせる痣が肌の上に広がっていて、わかっていても視界に入るだけでぞっとしてしまう。

ああ、と声を出した、はずだったが音にならない。どれだけ声を潜めたとしてもかすかに出てしまう音すら、今の喉からは出てこない。

朝、顔を合わせた刀剣男士におはようとあいさつしたはずなのにただ口を動かすだけしか出来ず、自分の声が聞こえてこなかった。
風邪を引いて喉が腫れて痛いわけでもない。嗄れているわけでもない。なのに声が出なかった。
男士がぎょっとしたように、主、と悲痛な声を出した。そのとき、喉に痣があることに気づいた。

病院に駆け込んでそして言われたのが、呪いという言葉で。
呪いをかけられたというより触れてしまったようだ、と診察してくれた、呪いとそれからくる病を専門とするらしい医者が言っていた。 無差別な呪いだが、そう深刻なものではないとも言った。
呪いを受けたのに深刻ではないと言われては、さすがにのんきだと言われている自分にもそんなわけがないことくらい理解できる。だが抗議は声にならない。
代わりに表情に出たようで、けれど大丈夫だと医者は気楽な様子で笑った。
「その花びらのような痣は、だんだんと枯らすように消えていくんだ。それが消えれば呪いなんてはじめからなかったようになくなるから」
犯人はおそらく単なる愉快犯で、この呪いもちょっと長い風邪だと思って安静にしていればいい。
専門家である医者がそう言うのなら、としぶしぶ納得した。

「にしてもきみという子は、恨まれて呪いをかけられるというならまだわかるが、触れてかかるってのはどういう事なんだ?」
鶴丸国永が呆れたと言わんばかりの声と表情でそう言って来るのに対して、会話のために端末のメモアプリを起動する気も起きず、拗ねてむくれて見せた。
「……けれどまあ、恨みを買った結果じゃなくて良かったとは思っているよ」
巻き込まれたきみにとっては災難だろうが、と鶴丸はなだめるように肩を叩いてくるので、大きくため息をつくとともにうなずいた。

確かなきっかけはよく覚えていない。ただ、買い物から帰ってきたときに少し喉に痛みが走った。
そのときは春が近いとはいえまだ寒い日も続いていて、単に空気が乾燥している所為だと思っていた。
うがいをして温かくして眠った翌日、声が出なくなって、病院で呪いによるものだと判明したのだ。

「その医者の言う通り、ゆっくりしているといい。おとなしくて静かなきみというのも新鮮だしな」

端末の画面に打つという手段に最初は不便さを感じたが、むしろひと手間ある方が考え無しに言葉にするよりはいくらかマシかもしれない、などと歌仙兼定や加州清光に言われもしたし、自分でもそうかもしれないとも思うのにそう時間はかからなかった。
考え無しに口にして、男士たちに呆れたようにため息を吐かれなくなるのだから決して悪いことではない、と前向きに考えることができた。
だから自分自身を含めて誰も深刻ではなかった。
終わりの見えているそれは命を脅かすものではなくて、精々花びらを数えた限り一週間から長くても二週間程度だろうと、少しばかりのん気に構えていた。

暗い闇から、誰かの両手が伸びてきて、両耳を掴まれた。
痛いほど握りつぶすような力で、そして力任せに――

飛び起きて、とっさに自分の両耳が無事であることを確認し、安堵で胸をなで下ろす。
ことさら大きく吐いたはずの息は、相変わらず音になることがない。
だがそれにしても嫌な夢を見たと布団に倒れこんで、知らずかいていた冷や汗を拭う。
枕元の時計を見ればセットしている時間よりわずかに早い。手繰り寄せて抱えてため息をつく。
目覚ましが鳴ったら起きあがろう、とぼんやり時計に視線をやると、ちょうどセットした時間で鳴るはずの音が、だが聞こえなかった。
針は動いているし、アラームのスイッチは入っている。もしや壊れたのか、と耳元に持っていく。
骨董品一歩手前のアナログ時計だが、おかしなことにかすかな秒針がすすむ音さえ聞こえない。
軽く振ってみるが、何も音はしない。というより、先ほどから何の音もしない。

布団の中で動いたことによるわずかな衣擦れの音も、時計の秒針の音も、小さな冷蔵庫のモーター音も。
静かにしていても聞こえてくる、日常のかすかな音。それらすべてが聞こえないのだ。
思わず両耳を両手でふさいだことで手にしていた時計が滑り落ちたが、その音さえ聞こえなかった。

私室の戸を開ける。執務室の文机を叩く。
どれも何も音がしない。足音もしない。端末の音をいじるが何も聞こえない。
棚の上のオルゴールのぜんまいを巻く音、そして音色。

あらゆる音が聞こえなくなっていた。

肩を叩く感覚に知らずうつむけていた顔を上げ、振り返る。鶴丸国永がこちらの顔を覗き込んで、そして何か口を動かしていた。
何かを喋っている。だが、何を喋っているのかわからない。
文机に置いていた紙にいきおいのままに書いて、半ば押し付けるように彼の眼前に掲げた。

『なにも音がきこえない』

鶴丸が目を見開く。何か焦った様子で唇を動かすが、けれどそれもわからない、と首を横に振るしかできない。
焦れたのか鶴丸がペンを奪い、紙に書く。彼らしくもない焦りが、文字に乱れとして表れていた。

『いつからそうなった?』

相手が焦っていると、逆に余裕が出るものなのかとどこか他人事のように思いながら端末に打ちこみ、画面を見せる。
『朝おきたらなにもきこえなかった ゆめで耳をちぎられた』

とっさなのか、鶴丸が手を伸ばして確かめるように耳に触れる。
その触れる音すら聞こえなくて、思わず唇を噛んだ。
手が離れ、彼が悲痛そうな表情を浮かべるのを見て胸の痛みを感じながら文字を打ちこむ。

『大丈夫だからそんな顔しないで』

だが鶴丸は首を横に振り、両肩を掴んできて何かを必死に訴えていたが、けれどそれを聞き取ることが出来なかった。


診察の順番を待つ間、メモ帳に文字を書いて山姥切国広に見せた。
自分が話せないだけならば端末でよかったが、相手の声も聞こえないとなるとメモ帳に書きつけていくほうが早い。

『めいわくかけてごめん』

山姥切がペンを取って文字で言葉を返す。
『あんたに迷惑をかけられるのはいまさらだ』

『ひどいよ(笑)』

非難に聞こえないように、そしてそれが彼なりの冗談であることをわかっているという意味を含ませて、最後に丸括弧の中に笑という文字を入れた。
それを読んだ山姥切は再度ペンを動かす。

『いまさらだからこれから何かあったらちゃんと言え あんたが一人で大丈夫とかかえこむほうがいやだ』

メモ帳から視線を上げると、山姥切の真剣な表情にぶつかる。
滲んだ涙をまばたきでごまかしながらうなずき、感謝を伝えるために文字を書くよりも、と口を開いた。
声は出なくとも形を作ることはできる。
ありがとう、と一文字ずつ確実に形を作れば、山姥切はそっと表情を和らげた。

症状を確認して、前回気楽な様子であった医者が勢いよく頭を下げた。
何事かと目を瞠る二人に対して医者はメモ帳に、最初の診断が誤診だったと書いた。
そして、いまかかっているのは実はかなり深刻な呪いであるとも。
「なっ、おいどういうことだ!誤診って、そんなの」
思わずといった様子で立ち上がった山姥切の袖をとっさにつかんで首を振った。
彼が何を言っているのかは聞こえないが、表情からなんとなくは理解できる。

紙の上でペンを動かす。
『本当はどんな呪いなんですか?』

『花びらのあざが似ているために見誤りました 過去にわずか数例ですが五感をうばわれる呪いが存在しました その呪いの可能性が高いです』

初診のときのどこか軽そうな喋り方を一切感じさせない真面目な文章だった。

五感が奪われる呪い――。

何度読んでも文章は変わらない。読んで、頭の中で理解して、ゾクゾクと肌があわ立った。
メモ帳を持つ手が震え、それを隣に座っている山姥切がとっさに掴む。
視線を向ければ、どこか困ったように眉をさげながらも口元はほほ笑んでいて、それが彼なりに励まそうとする表情だと気づいたが、どうしても涙がにじむのを抑えられなかった。
唇を噛んで、手の甲で目元をこすると、ゆっくりと息を吐きだした。

「光をうばわれたときは、もう覚悟をしたほうがいいと思います……」
解呪の方法を捜すにしても資料が少なすぎるので、という医者の言葉に、山姥切国広は主の手を掴む力を強くした。
不思議そうな表情の主に、これは伝えるべきだろうかと悩み、首を振って代わりに頭をそっと撫でた。
話すにしても、今はまだその時ではない。


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