美しい歌声が聞こえてきて、銀河は目を開けた。
体を起こし、グッと体を伸ばす。背中の翼がこすれて、羽根が抜け落ちる。
灰色の部屋に、白い羽根が舞い上がるのをぼんやりと眺めて、銀河はベッドから降りた。
ここにきてどれくらい経っただろうか。
種の保存、繁殖を目的とする施設がある。
そこでは多くの絶滅危惧種とされる生物が保護されていた。
一般的な生物から、幻想種と呼ばれる生物まで様々だ。
銀河は、幻想種の一つである天馬だ。さらには翼の生えた馬と、翼の生えた人の姿の二つを持つ、天馬の一族と呼ばれる希少種であり、そして今は一族でただ一人の生き残りだった。
天馬は神秘的な姿から乱獲の対象になり、すっかり数を減らして主な生息域とされる場所で生き残っていたのは銀河だけになってしまった。
銀河は今はまだ子供だが、やがて大人になればその血を残すために、同じ幻想種でより近い種類の相手をあてがわれて子供を作ることになっている。 来月には同じ幻想種の一角獣が嫁候補としてここへ来ると、施設の職員が話しているのを聞いていた。
銀河は施設の中庭のベンチに座って、空を見上げていた。
翼を持っていても、銀河はこの場所から飛び立つことが出来ない。
飛んだところでどこにも行くあてがないからだ。
帰る故郷はすでに失く、仲間たちのように狙われて捕まってしまうかもしれない。
ここに保護された当初、空を飛びたいと泣く銀河に、職員がなかば脅すように何度も言っていた。
最後の一人として希少が故に、どんな輩に狙われるかわからない、と。
中庭を後にして施設内を歩いていると、少し前まで幻想種である麒麟が入っていた檻があった場所に人が多く行き来しているのを見かけた。
何だろうと思いながら近づいていくと、気づいた職員が危ないし作業の邪魔になるからこれ以上近寄ってはダメだと銀河を遠ざけた。
檻の中を片付けている様子から、誰か来るのかと聞けば、竜の生き残りが見つかってそれが明日ここへ来るのだという。
「竜?」
銀河が首をかしげると、職員はうなずいた。
竜の一族と呼ばれる、銀河のように一つ以上の姿を持つ希少種で、しかも王の血統なのだ、と。
希少種であるだけでもすごいことなのに王の血統がここへ来るなど、これほど珍しいことはないとその職員は興奮気味だ。
ただ珍しすぎて繁殖に適した相手は簡単に見つからないかもしれないと、顔を曇らせる。
作業に戻る職員を見送り、銀河は自分に与えられた灰色の部屋に戻りながら、同じ幻想種で希少な生き残り同士、仲良くなれたらいいなとぼんやり考えていた。
――それが、運命の出会いになると知らないまま。
叫び声が聞こえ、銀河は飛び起きた。天井近くの窓を見れば、外はすでに明るい。
あんな声は初めて聞いたと、恐怖に体が震えてしまう。
いつもならば朝は近くの水槽で泳いでいる人魚の美しい歌声が聞こえてくるのに、それもない。
恐怖はあったが、今日はあの麒麟の檻に竜の生き残りが来る日だ。何が起きたのだろうと部屋を飛び出して、声の方に走った。 悲鳴が聞こえてきたのは、案の定というべきか、昨日立ち寄った麒麟の檻だった。
ガンガンと何かを叩きつける音が響いている。
檻のそばに、真っ黒い箱があったが、音はそこからしていた。
何かが内側からぶつかっているような、そんな様子だ。
もしかしたらあの箱の中に竜の生き残りがいるのだろうか。
そういえばあの黒い箱は、危険な生物を安全に運ぶためのものだと前に聞いたことがある。
けれどその箱が内側から音を響かせているなんてよほどのことだ。
中でその竜の生き残り、王の血統だという生物が暴れているのだろうか。
大勢の職員が大きな網などを手に箱を囲むようにしている。
合図で開けるぞ、と誰かが声をかけて、そして扉代わりの箱の一面が開けられた瞬間、黒い塊のような何かが飛び出してきたが、それは途中で勢いをなくして地面に崩れ落ちた。
それは人の形に近く、けれど浅黒い肌は鱗に覆われ、腕や足に鎖が巻き付いていた。
鎖の先は職員が懸命に掴んでいる。
理性をなくして牙を剥く姿からは憎悪と怒り、そしてどうしてか悲哀が感じられて、銀河はその場から動けなくなってしまった。
仲良くなれたらいいとぼんやり思っていた昨日とは打って変わり、銀河ははっきりと確信していた。
自分はいま、あの竜の生き残りの男と出会うために、ここにいるのだと。
心臓が高鳴って胸が苦しい。 息が荒くなり、立っていられなくなって思わず膝をついたが、視線を男からはがせなかった。 視線の先では、竜の男はなんとか抑えようとする職員を威嚇し、牙を剥いて鎖を引きちぎろうとしていた。
彼はきっとここに来たくなかったのだ。言葉を交わさずとも銀河には理解できた。
時折ここに来る生物の中には、閉じ込められることを嫌って逃げ出そうとする者もいる。
銀河にもその気持ちがよく分かった。
ひどいことをされているわけではなくても、こうして歩き回ることができても、それでもこれまでの暮らしとは何もかもが違っていて、息苦しさを感じてしまう。
彼はこんな場所に縛られる存在ではない。何しろ竜の一族の生き残り、その王なのだから。
銀河は立ち上がると翼を広げ、男の元へとまっすぐ駆け、飛んだ。 羽ばたきで抜け落ちた羽根が散らばり、男に降り注ぐ。 銀河は竜の男へと手を伸ばした。
強化ガラスの向こうで、竜の男は用意された鳥の巣のような藁の寝床で横たわっていた。
両手足を鎖につながれたまま、人間の胎児のように丸まっている。
ガラスに手をついて、銀河はそれを飽きもせず眺めていた。
伸ばした手は、振り払われたことで男の爪によって傷ついた。
銀河は手当てを受け、包帯が巻かれる様子を他人事のように見ながら、竜の男が結局麻酔を打たれてようやく大人しくなったと聞いていた。
竜の一族は高山地を渡り歩く流浪の民でもあるのだが、だんだんとその数を減らして、残ったのは種族の中でも生命力の高い王の血統の彼だけだという。
危ないから近づいてはダメだと職員は銀河を遠ざけようとするが、気がつけば銀河はガラスの檻の前に陣取って中を飽きもせず眺めている日々が続く。 そして竜の男は、麻酔を打たれて眠って以来、ずっと眠り続けたままだ。 すでに麻酔の効き目は切れているはずなのに、目を覚ます様子がない。
おかげで食事も与えることが出来ないままで、一応生物全般に投与が可能な栄養剤を注射しているが、普通はそれでもどうしても弱っていくのに不思議とその様子がないのだ。 目が覚めたところでまた暴れだすことを考えたら、このまましばらく様子を見ることが職員たちの間で決まると、銀河が檻の中を眺めていても誰も何も言わなくなった。 むしろ、何かあったら知らせてくれとまで頼む始末だ。
「……なあ、いつまで寝てるんだ?起きておれと何か話してくれよ」
聞こえないとわかってはいても、銀河はそう声をかけてしまう。
眠り続ける姿を眺めるのは不思議と飽きないが、それでも寂しさがあった。
彼の声が聞きたい。
そういえば名前はあるのだろうか。職員たちは彼を竜皇と呼んでいた。
竜の一族の王はそう呼び習わすので、それに倣っているらしい。
「おれは銀河って言うんだ。なあ、お前の名前は何て言うんだ?」
目の前にたたきつけられた拳に、銀河は目を瞬いた。
ヒビは入ったが割れないことに、男の顔が忌々しげに歪む。
異変に気付いた職員が呆然とする銀河を遠ざけ、他の職員にあわただしく指示を出す。
銀河は遠ざけられるなか、憎悪に満ちた苛烈な金色の目が自分に注がれているのを感じていた。
もう竜皇の檻に近づくのは禁止だと、部屋に送ってくれた職員が言い残して行ってしまうと、銀河はようやく自分の状況を振り返り、ベッドへと倒れ込む。
体を丸め、シーツを握りしめて体を震わせた。
どうしてか涙があふれて止まらなかった。
いつものように眠る彼を眺めていただけで、何もしていない。 なのに突然彼が身動ぎしたと思ったら、殴りかかってきたのだ。 ガラスがなければ、その拳が銀河の顔にめり込んでいただろうことは疑いえない。
食事を持ってきてくれた職員に、竜皇はどうしているのかと尋ねたが、いつもは短くとも会話に応じてくれるのにこの時ばかりは無言で部屋を出ていってしまった。 ガラスの檻に近づくのも、彼のことを聞くこともダメなのかと銀河は手にしていた食事を皿に戻し、ベッドへと突っ伏した。
翌朝、銀河はいつものように部屋を出ようとして、思いとどまった。
どこに行くつもりをしていたのだろう。もう近づいてはいけないと言われているのに。
行ったとしても、きっと彼はまた憎悪に満ちた目を銀河に向けてくるというのに。
苛烈で、そして鎖に絡めとられるような重さのある、金色の目。
怖いと思うのに、もう一度見たいとも思ってしまう。
初めて彼を見た日から、自分はおかしくなってしまった。話すわけでもないのに、眠る姿を飽きもせず見続けて、憎悪を露わにされて怖いと思っているのにそれでも会いたい、そばにいたいと思ってしまう。
こんな自分は知らなかった。
そしてこれは、どういう感覚なのだろう。
父が生きていたら、教えてくれたのだろうか。
密猟者から仲間を守って死んでしまった父が、もしも生きていたら何と言ってくれたのだろう。
「……父さん。おれ、どうしたらいい?」
脳裏に描いた父は、だが笑みを浮かべるだけで何も言ってはくれなかった。
夜、眠れずにいた銀河はそっと部屋を抜け出した。
ここで保護されている生物たちには夜行性のものも多く、あちこちから鳴き声が聞こえる。
銀河は中庭に向かっていたつもりだったが、ぼんやりしていたからなのか、気がつけばガラスの檻の近くまで来てしまっていた。
見つかって怒られる前に、と踵を返そうとしてうめき声が聞こえることに気づいた。
そっと檻の中を覗き込めば、彼が苦しそうにしている姿が見えた。
彼の周りには何かキラキラとしたものが散らばっている。よく見れば彼の腕や胴には血が広がっていた。
傷を負っているのだろうか。
痛みを紛らわせるためか、藁の寝床を必死に掻いている。
急いで知らせなければ、と銀河は職員たちの詰所へと走った。
翌朝。銀河がガラスの檻の中を見ると、彼は整えられた寝床で眠っていた。
体中に包帯を巻いて、顔には疲労の色が濃い。過去の記録から、竜種は極端なストレスにさらされると鱗が剥がれ落ちてしまうことがあるのだと、処置している職員たちの会話を銀河は盗み聞きしていた。
だからあんなに苦しそうに、痛そうにしていたのだろう。
痛ましい思いで銀河がじっと見ていると、気づいたのか彼が目を開け、銀河を見たことで視線が合ってしまった。
立ち去る機を逃してしまったことに困惑しつつ、けれど彼の目を一目見たら立ち去れるはずがないとも思いながらそこから動けずにいる。 彼はじっと銀河を見つめながら寝床から起きだし、警戒を滲ませながらも銀河のそばへと近づいてくる。 そうしてガラスについていた銀河の手の平に合わせるように、彼は手のひらをガラスに張り付けた。
二人の視線が絡み合う。
憎悪に燃えていたあの時の目とは違う。
だがそれは銀河を縛りつける強さを持っていた。
今なら、名前を訊いてもいいだろうか。
そう思いながら、名前を教えてほしいと声をかけると、ガラス越しのくぐもった声ではなく、耳に直接吹き込まれるような声で答えがあった。
「……竜牙」
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